七章

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 誠が帰ってきたのは日付が変わる直前のことだった。呼び出されて誠の自室に初めて通される。尊の使用人だった寿は尊の部屋に自由に出入りは出来ても、誠の部屋に出向く機会はほぼなかった。 「随分と派手にやったみたいだな」  誠は呆れ顔でギプスで固定された腕を見た。その言葉に寿は何一つ言い返すことが出来ずに俯く。 「……学校へ私が直々に説明に出向いた。君のお兄さんとも会ったよ。何が原因か尋ねても〝家庭の事情〟だとはぐらかされたがな」  さすがに石蕗も自分が生徒に手を出したからこのようなことになった、とは言えなかったらしい。だから寿も訴えられずにすんだのだろう。 「だが、私は今一つ納得がいってない」 「俺の行いに、っすか」 「申し訳ないが君のご家族のことについて裏から色々と調べさせてもらった。どうしてこのようなことに至ったか気になってね。確かに兄弟仲は良くなかったそうだが、君が手を出すようなほどではなかったと思う」 「いや、でも俺と兄貴は……」 「第一、君は人を殴るような性格ではないだろう。尊への接し方を見ていればすぐに分かる。顔に似合わず、優しい心を持っていると」  顔に似合わず、というのが少し引っかかったが誠も武内と同じように随分と信用をしてくれていた。改めて自分がどれだけのことをしでかしたかを思い知らされる。 「何か別に理由があるのだろう?」  言えるわけがない。尊の尊厳にも関わってくる。兄についてはどうなっても構わないが、尊だけは傷つけたくなかった。この父親のことなら上手くやるだろうが、尊は果たしてそれを望んでいるかは分からない。 「君のことは買っている。尊は伊沢が来てから随分と変わった。よく笑うようになったし、学校へ行くのも毎日楽しそうだ。合唱コンクールの一件で自信もついたのだろうな。君には感謝してもしきれない」  ぐらりと心が揺れる。尊と兄の間で起こったことを包み隠さずに話せば温情も与えられる可能性が高い。だが、それをしてまで尊の側にいる資格が自分にあるのか。  寿も尊に兄と似たような感情を抱いているのだ。  手こそ出してはいないが特別な感情を持っていることに変わりはない。いつか兄と同じように尊によからぬ事をしてしまうのが怖い。 「……兄貴の言う通り、家族間の問題です」 「一度だけ聞く。それは本当なんだな?」 「はい」 「分かった」  おそらく別の事情を抱えていることに誠は気付いている。それで寿に最後のチャンスをくれた。それを寿は退けてしまった。もう、同じようなチャンスは二度と与えられない。 「今この瞬間を持って、君には尊の世話役を外れてもらう」 「……はい」 「君のしたことはそれほどに大きいことなんだ。分かってるね」  尊の世話役を解任される。  改めて通告されると心がギリギリと締め付けられるように痛んだ。そして身体の芯がスッと冷えていく感覚。足元から地面がガラガラと崩れていくような感じがした。 「俺はどうなるんでしょうか?」  長い沈黙の後に寿の方から切り出す。元々この家に来たのは尊が寿を闇オークションで選んだからだ。その尊と離れるとなると宝来家が寿を留め続ける理由はない。 「最後まで君の面倒を見るつもりだよ。ただこの家ではなく別の場所で働いてもらう」 「別の場所……」 「今のところは本社の清掃などを担当する部署で働いてもらおうと思っている」  てっきりまた闇オークションにかけられるとばかり思っていた。誠も寿の思考を見抜いたのか先回りして答えてくる。 「まさか一度、宝来の家に招き入れた人間を闇オークションなどで売ろうなどバカな考えは持ち合わせてないよ」  このまま宝来家で世話になり続けられるようだった。誠の懐の深さを改めて痛感する。宝来ホールディングスという一大企業の長を務めるだけある器の大きい人間であった。  話し合いを終えて、まだ太陽も登りきっていないくらいの時間に寿は荷物をまとめて宝来家を出る。  誠に買い与えられたスーツだけクローゼットに置き去りにした。これまで持って帰ってしまうといつまでも尊のことを思い出してしまいそうで怖かったからだ。ハンガーにかけられたままのスーツに別れを告げて部屋を後にする。寂しげにスーツの裾が揺れた気がした。  出る間際に尊の寝顔だけでも見に行こうかと持ったのだがそんなことをしたらそのまま連れ去ってしまいそうだったからやめた。代わりにドア越しに声をかける。 「尊、元気でな。  約束、守れなくてごめん。合唱コンクール、見にいくって約束も守れなかった。ずっと一緒にいるって言うのも守れなかった。ごめん、俺……何一つ守れてねえな。  尊は俺がいなくても、もう大丈夫だよな。辛いことがあったら言える友達も沢山できたもんな。石蕗もあれだけやったから二度とお前に変な真似はしないと思う。  尊、俺は離れていても幸せを願ってるよ。  こんな俺を選んでくれてありがとう……ごめん」  泣きたかった。でもこれ以上無様な姿を曝け出したくない。全ては自分が怒りを我慢できなかったからこのようなことを招いてしまった。もっと理性的であれたら、尊との約束を守ることが出来たのだと思う。そして二人でくだらないことを言い合いながら尊の成長をずっと側で見届けられた。それが叶わない夢になってしまった。 「じゃあな」  尊はもう一人で歩いていける。今まで傷ついた分、寿ではない別の誰かと幸せになるのだ。  寿は尊の部屋に向かって深々とお辞儀をすると荷物を手に宝来家を後にした。  振り返ることはなかった。
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