七章

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「伊沢さん、そこの電球。変えてもらってもいいかい?」 「大丈夫っすよ!」 「いやぁ、伊沢さんがいてくれると高い所も任せられていいねぇ」  新しい職場に移って一ヶ月が経とうとしている。新しく与えられた居場所は宝来ホールディングス本社を始めとする関連会社の清掃を請け負う小さな会社だ。社長を始め会社内の年齢層は高く、寿はまさかの最年少であった。  事情を聞かされているであろう社長も皆と変わらぬように接してくれて、社員一人一人もとても温かい。この社長あってこの会社なのだろう。  尊の一件で塞ぎ込みがちだった寿も徐々に自分から誰かに話しかけたり、年配のスタッフでは苦労するような力仕事を進んで引き受けたり、仕事に対して積極的に取り組んだ。  コンビニのアルバイトの時とは比べものにならないくらいに〝仕事〟というものが楽しい。もちろんしんどい時もあるが、それを乗り越えようと思えるだけの熱量が寿の心に宿っている。  全ては尊が与えてくれた。  頑張ること。誰かのために動くこと。最後まで諦めないこと。尊と過ごした時間が血肉となり今の寿の心となっている。 「このままこの辺りの高い場所もやっちゃうんでゴミ捨ておねがいしていいっすか?」 「分かったわ。本当、ありがとうね。伊沢さん」  尊という存在を失った穴は未だ塞がることはない。だがそれでも前を向ける強さを他の誰でもない尊が与えてくれた。 「ああ、伊沢くん。ちょうどいいところに来た。シゲさんが温泉旅行土産にまんじゅうを買ってきてくれたんだ。良かったら食べて」 「うっす。ちょうど腹減ってたんでありがたいっす!」 「伊沢さんはよく食べるから見ていて気持ちがいいなぁ」  休憩室に向かうと、昼休憩の時間ということもあって続々と人が集まっていた。旅行好きの同僚が買って来てくれた饅頭に手を伸ばし、パクリと一口。年配のスタッフが多い職場のせいか昼休みにはよく菓子を持ち寄るのだが、和菓子が多いせいでいつも尊のことばかりを思い出してしまう。 「本当に甘いモンには目がないねぇ」 「沢山あるから私の分も食べな」 「ありがとうございます!」  それでも悲しむような隙も与えられないくらいに皆が優しく接してくれるから今日も寿は前を向いてやっていける。 「そういやぁ、最近来てる坊ちゃん。どこの子なんだろうなぁ?」 「横山さんも会ったのかい?」 「シゲさんも? 何か人を探してるみたいだねぇ。昨日も警備員に捕まってたな」 「本社の方のご家族なら受付に行けばいい、ってこの前教えてあげたんだけど」 「へぇ、俺は会ってないっすけど。その子の探してる人。見つかるといいっすね」  一日のルーティンを繰り返す清掃会社の人間は噂話が大好きだ。ちょっとでも珍しいことがあると休憩室で話題となる。最近は「宝来ホールディングス本社に頻繁に訪ねてくる少年」の話題で持ちきりだ。  その少年を最初に見つけたのは仲間内で〝シゲさん〟と呼ばれている相田であった。相田がいわく学生服に身を包んだ少年が裏口を遠巻きから見つめていたらしい。声をかけたところ「人を探している」とのことだったので受付に行くように促した。だが、彼は相田のアドバイスを聞かず次の日は別のところでキョロキョロと辺りを見回していたそうだ。  それから数日後、今度は別のスタッフも件の少年を見かけたがやはり「人を探している」と答えていつまでも当たりを見回していたらしい。その後、警備員に連れて行かれてもう見ることもないと思っていたのだが次の日にまた別のスタッフが見かけたという。 「あんな熱烈に誰かを探すなんて一度でいいから経験したいものだね」 「俺らの歳じゃあ、もうそんな大恋愛みたいなのもねぇだろ」 「伊沢さんだったら可能性がまだあるけど」 「ねぇ、伊沢くんはないの? 良い話とか」  一斉に寿の方に視線が向いた。三十五といえどもこの会社では最年少が故にこの手の話題ではよく注目の的となる。出来るなら避けたいが普段可愛がってもらっているのもあってなかなか言い出せない。 「俺は……もうないっすね。そういうの」  噂の少年に自分を重ねてみる。彼は諦めずに探し続けているが、自分は一体どうだろう。尊のことを思うと忘れかけていた心の穴にピュウッと隙間風が吹いた。  昼ご飯を終えて午後の清掃に入る。  午後は出てきたゴミを回収する作業がほとんどだ。パートの女性陣が少なくなるから作業自体は減っても一人一人への負担は増えていく。  特にゴミ出しの作業は中々の重労働で午後も勤務するスタッフが当番制で行っていた。今週から寿の番になる。大企業故に社員も多く、出るゴミも多い。だが最年少で他のスタッフに比べれば体力も有り余っている。弱音を吐いていられない。 「そーいや、シゲさんが謎の少年を見かけたっつーのも裏口だったよな」  昼休憩中に話していた〝謎の少年〟の話題を思い出した。彼の噂を聞くようになってから寿がゴミ出し当番になるのは初めてだ。もしかしたら今日、仕事の途中で見かけるかもしれない。 「どんなガキだろうなー……」  身近にいた少年と呼べる年代の人間が尊しかいなかったので、つい彼のことを考えてしまう。もしその少年が尊だったとしたら──初めて噂を耳に尊が自分を探しにきてくれたのではないかと思ったのだが、寿が今この会社で働いていることは誠と武内しか知らないはずだ。  何回か尊からの手紙を武内から預かったがどれも返事は返していない。返すどころか封を開けられずに机の中にそっとしまい込んである。このままずっと封が切られることはないのだろう。  くだらない妄想で頭をいっぱいにするより今は目の前の仕事に集中しなければ。パンパンにゴミが詰まった半透明の袋を両脇に抱えて、業者のトラックに積んでいく。 「ん……?」  トラックとゴミ捨て場の往復を何度か繰り返してからのことだった。キョロキョロと辺りを見回す人影が目に映る。瞬時に相田や横山が噂していた少年だと理解する。  遠くからでは外見の仔細までは分からないが、少し小柄なようだ。しかし服装の感じに見覚えがある。何だか胸騒ぎがした。いや、そんなこと。絶対にあり得ないはずなのに。  足音を立てないように息を潜めて近づく。寿の予感がもし当たったとしたら。期待と否定を交互に繰り返しながらゆっくりと距離を縮めていく。距離が近づくにつれて、その期待は現実になっていった。 「寿……」 「み、尊っ⁉︎」 「ことぶきっ! 寿だよね? 僕……ずっと、探してたんだよっ?」  ずっと想っていた人が目の前にいる。  呼吸が浅くなる。宝来家を出て行ったあの日、言い残した事が沢山あるのに上手く言葉が出てこない。 「ねぇ、寿……」  駆け寄ってきた尊は飛び込むようにして寿に抱きついてくる。しかし寿はそれを抱きしめ返してやることが出来なかった。
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