一章

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 閑静な住宅街の中にその屋敷は突如現れた。明らかに他の家とは違う立派な門構え。見上げるほどに高い塀から覗く豪邸。絵に描いたような〝大富豪の家〟である。  車が近づいたのを見計らったように使用人らしき人物が出てきて門を開く。運転手はそのまま直進した。塀の中には見たこともないような木々が植えてあり、小さいながら池まである。都心の一等地にこれだけの規模の土地を所有出来るならば、五億で人を買うのなんて安い買い物なのかもしれない。  車はそのまま豪邸の裏手に回るとずらりと並ぶ高級車の列の一番端っこに停車した。高級車達はどれもピカピカに磨かれていて、曇りひとつないガラスのよう。そこに映る寿は闇オークションの舞台に立っていた時とは別人であった。スーツを着て、頭髪や髭を整えただけで人はこんなにも変わるのかと、黒塗りのボディーに写る自分をマジマジと眺める。 「その車が気になるのかい?」 「あ、いや」 「そのうち君も運転することになるさ。尊の送り迎えも仕事の一つだからな」  この高級車のハンドルを握る……想像しただけで身震いした。一体、いくらするのか聞きたいが怖くて訊けない。 「さて、君の部屋に案内しよう。その前に会わせたい人間もいる。疲れていると思うがもう少しだけ我慢してくれ」  言われるがまま、誠の背中を追う。豪邸の中は外見に劣らず、豪華な内装であった。まず玄関からしてスケールが違う。寿が以前住んでいたアパートと同じくらいの広さだ。そして掃除の行き届いた床は先ほどの高級車同様、極限までピカピカにに磨かれている。 「まずは使用人の武内に会ってもらう」 「俺が業務を引き継ぐ人、っすか」 「そうだ。君の師となる。少し厳しい部分もあるが気も利く。おまけに腕っぷしもなかなかのものだ。主人の私が言うのもアレだが完璧な使用人だよ」  確か七十を超えたと言っていたが、厳しくて仕事も出来ておまけに強い……少年漫画に出てきそうな風貌を勝手に想像してしまう。もう、何が出てきても寿は驚かない自信があった。今まで生きてきた世界と宝来家は全く違う。 「武じい! 早くパパに電話してっ!」  扉の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえてきた。甲高い声には怒りが含まれている。 「坊っちゃま。いい子にして待っていればすぐに帰っていらっしゃいますよ」 「だって僕がスーツを選んであげるって言ったのに目が覚めたら家にいたんだもん!」 「坊っちゃまは今日も学校でお疲れでしたら、早くお休みになられた方がいいとお父様もお考えになったのでしょう」 「でも僕は寿のスーツを選びたかった!」  尊は自分が先に家に帰されたのをひどく怒っているようであった。あんな可愛い寝顔からは想像がつかないほど、キャンキャンと吠えるように文句をぶつけている。 「騒がしいぞ、尊」 「あ! パパ!」  尊は誠の姿を見つけるなり駆け寄ってくる。プリプリと怒る様子を見ているとどうしても愛らしいと思ってしまう。本人は本気で怒っているのだから口が裂けても言えないのだけど。 「ねぇ、どうして起こしてくれなかったの? 僕が寿のスーツ選ぼうと思ったのに」 「仕方ないだろう。遅かったし、お前がぐっすり寝ていたんだから」 「でも僕が寿に選んであげるって……」 「伊沢は今から武内とお話をするんだ。終わればすぐに尊のところへ向かわせるから、それまでいい子で待っていなさい」 「……はぁい」  全くもって納得していない様子であったが、父親の言うことには逆らえないのだろう。あからさまにしょぼくれる背中を見ていると少し心が痛む。 「寿、早く僕のところに来てね」  振り返ったと思ったらダメ押しの言葉。まん丸な瞳は寂しさに揺れ、唇を尖らせているのが幼さをより一層と強調する。 「武内、あの聞かん坊の世話は骨が折れるだろう」 「旦那様がアレくらいの頃はもっと大変でございました。尊坊っちゃまは少し寂しがり屋ですが、聞き分けの良い子でございますよ」 「私が子供の頃の話はよしてくれ……」  武内と呼ばれた年配の男性は髪をピチッとしており白髪混じりの顎髭を蓄えている。身体の線はイメージよりかなり細い。かなり腕が立つと聞いていたが、それは本当なのだろうか。少し垂れた目は穏やかな人柄を表しているかのようだ。 「この方が?」 「ああ、今後は尊の世話役として迎えようと思っている」 「てっきり女性か、あるいは坊っちゃまの年齢に近い方をお連れになると……少し意外でございますが、これも何かの縁でございましょう」  上から下まで寿を舐めるように見つめる。心の奥底の方まで値踏みをされているようで居心地が悪い。 「初めまして、武内権三と申します」 「伊沢寿っす。よろしくお願いします」  手を差し出されたのでこちらも慌てて差し出す。ギュッと握られた手はかなり力強い。先ほどまで柔和な笑みをたたえていた武内の顔が打って変わって鋭い表情に変わった。 「伊沢さん、貴方様にはこれから坊っちゃま身の回り全てをお任せすることになります故、指導も厳しくさせてもらいます。亡き奥様の分も愛情をかけて、立派な宝来家の後継に育て上げるのが貴方様の使命でございます」 「亡き、奥様……?」 「ああ、まだ話していなかったが私の家内は一年ほど前に亡くなっていてね」 「申し訳ありません。まだ話されていなかったのですね。でしゃばった事を」 「いずれ話すことになっていたさ。つまり君には尊の世話役と同時に沢山の愛情を注いでやってほしい。母の愛にも勝るくらいに」  ますます話がおかしくなってきた。尊が選んだと言うだけでそこら辺にいる輩を買って世話役を任せるなんて。もっと適任がいるのではないのか。寿に子供の世話をした経験はない。こめかみからツーッと汗が垂れた。 「大丈夫ですよ。伊沢さん。あの人に対してあまり心を開かない坊っちゃまが、あれだけ気に入っていらっしゃるのだから。お勉強などは家庭教師が教えます。使用人の作法は徹底的に私めで叩き込ませて頂きますから、どうぞご安心ください」  キラリと光る眼光。本当にとんでもないところに連れてこられた。しかし拾ってもらった以上、宝来家に恩を返さなければならない。
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