八章

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 尊が入社をする日を迎えた。  清々しい青空。桜はだいぶ散ってしまったが、それでもまだ枝の端々に薄紅の花弁が残っている。青空を背景にそれは大変よく映えた。  寿が所属する会社も入社式の為の清掃の他に、会場の準備にも人員を割いて準備を進めている。寿は自ら入社式の準備要員へと立候補した。 「えー⁉︎ いつも重労働はしたくねぇってやりたがらないのに」 「どういう風の吹き回しですかね」 「うるせー、聞こえてんぞお前ら」  確かに会場準備の作業といえば椅子を運んだり、紅白幕を壁に張り巡らせたり、看板を上に釣り上げたり……と普段やりたくないことばかりだ。現在の会社に入社した年に経験してもう二度とやりたくないと、心に誓ったのを覚えている。 「代わりにお前らがやるか?」 「いや、大丈夫です! 伊沢さんがせっかく立候補してくれたんで平気っす!」  仮に「やる」と答えても譲るつもりはなかった。今年だけは特別な日。愛する人の晴れの舞台を飾り付けたい。そう思うのは別に不思議なことではないはずだ。  これまでにないやる気で挑んだ寿であったがやはりこの年での重労働は身体に負荷がかかる。終わった頃にはクタクタに疲れていた。ここに布団があったら今すぐ潜り込んで泥のように眠ってしまいたい。  今朝は入社式に合わせてかなり早めの出勤時間だった。午前九時の入社式に合わせて六時の出社。いつもより一時間ほど早いだけで出勤がこんなにも辛くなる。 「煙草がうめえな」  入社式ギリギリに準備が終えて、喫煙所に直行する。人事の社員はまだ仕事があるが、会場設営担当の寿はここで仕事終わりだ。出勤が早い分、帰りも早い。入社式に出る必要もない為、匂いを気にすることなく大好きな煙草を思い切り吸える。労働後の煙草はとても美味しい。コンビニのアルバイト時代から仕事終わりに煙草を楽しむのが寿の楽しみとなっていた。  宝来不動産の本社の喫煙所は一階のエントランスの端にあり、ガラスで覆われている。そこから四季で移り変わる景色や行き交う人々を眺めるのもなかなか面白い。頭の中を空っぽにしてぼんやりと佇む。疲れた身体がリセットされてまた明日からも頑張ろうと思えるのだ。 「ん?」  リクルートスーツを纏う新入社員達の群れ。その中に一人、目を引く人間が現れた。整えられた黒髪は艶めいていて、大きくてまん丸な目は前を見据えている。 (随分と立派になったもんだ)  同じリクルートスーツの中からすぐに尊を見つけることが出来たことに自分自身が驚いた。あとから込み上げてくる羞恥心。自分がどれだけ尊の独り立ちを望んでいたかを思い知らされる。  ふいに尊の目がこちらへ向いた。ガラス越しに目と目がかち合う。しばらく見つめあった後、尊の目尻が下がった。そして口パクで。 (あとでね)  と告げると再び前を向いて歩き出す。歩く姿がなんて凛々しい。成長を垣間見た気がして思わず目が潤む。きっと煙草の煙が目に染みただけだ。そう思わないと恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだから。  身支度を整えた後、入社式が終わるまで休憩室で時間を潰す。  以前、プロポーズをした同僚が「人生で一番緊張した」とボヤいていた。その時は他人事だと思って相槌を打っていたが、いざ自分がその立場になると緊張で汗が止まらない。 「あー……早く終わらねえかな」  何度も何度も時計を見てはため息をつく。入社式が終わるまでの時間が永遠に感じられた。式が終わり次第、駐車場で待ち合わせをしている。そのまま車に尊を乗せて〝目的地〟まで向かう予定だ。  今の清掃会社に勤めてからスーツとは縁遠い生活を送っていたが、何十年ぶりにスーツに身を通した。使用人時代のような立派なものではないけれど、袖を通すと身が引き締まる。そして駐車場には高級車──が用意できたら良かったのだが、どれだけ貯金をしても手が届くはずもない。それどころか今の社員寮から職場は徒歩圏内なので車自体持っていなかった。なのでせめても格好をつける為にレンタカーを用意して待機させている。それでもお坊ちゃんの尊からしたらミニカーくらいにしか思えないだろう。だが、何事もないよりある方がいいと自分に言い聞かせて一番高い車種をレンタルした。  付き合うという約束をした以上、半端な形でスタートを切りたくなかった。一緒に住むと決めた日からコツコツと貯金をして2LDKのマンションを買った。少し日当たりが悪いかもしれないが、宝来不動産本社にも出やすい駅を最寄りにしたし車で送り迎えが必要であれば自分の仕事と上手く都合をつけて、中古車でもいいから車を手に入れ送り迎えもするつもりだ。  もし自分の用意したプレゼント達が受け入れられなかったら。そう考えると肝が冷えるがいつまでも不安がってもいられない。と言ってもこれほどの緊張をほぐすのはなかなか難しい。ついつい煙草に手が伸びてしまう。吸い殻でいっぱいになる灰皿。式が終わる時間になる頃には隙間がないくらいに吸い殻で灰皿が溢れていた。 「そんなかしこまらなくてもいいのに」 「なんつーか気分だよ。気分」 「寿、そういうところ真面目だよねぇ」 「うるせー。とにかく車乗れ。車!」  入社式だけでも疲れただろうに疲労した顔一つも見せず、同期や上司の誘いも断り一直線に寿の待つ駐車場に来てくれた。 「なんか、昔を思い出すね」 「あの頃はまだ可愛げがあったけどな」 「でも今はもう大人だよ」  同年代の中でも小さかった尊は高校に上がったのを境にどんどんと身長が伸びていった。さすがに背丈を追い越されはしなかったが男として平均的な身長まで伸びている。そして愛らしいボーイソプラノは落ち着きを孕んだテナーへ。少年から大人に変わっても〝愛しい〟という感情が沸々と絶えず湧いてくる。 「そうだな。大人だな……もう自分のことは自分で決めれるよな?」 「もちろん」 「じゃあ、この車に乗ってくれるか? 連れて行きたいところがあるんだ」  無言で助手席に乗り込む尊。第一関門突破。あとは実際に用意した〝プレゼント〟を見せてどのような反応を見せてくれるか。  心臓がバクバクと凄い速さで脈打っている。キーを差し込もうとしたら手が震えてちょっとだけもたついてしまった。
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