301人が本棚に入れています
本棚に追加
尊も同様に緊張しているのか移動中の車内はシンと静まりかえっていた。痛いほどの沈黙。だがそれを破る言葉を見つけることもできず、結局お互いに一言も発することもなく目的地に着いた。
「ここ……どこ?」
近場のコインパーキングにレンタカーを置いて、さっさと歩み出す寿に尊は訝しげに声をかける。おそらくいつものように寿の住んでいた清掃会社の社員寮か、ロマンティックなデートスポットに連れて行かれると思っていたのだろう。
「まぁ変な風にはしないからちゃんと着いてきてくれよ」
頭の中はさまざまな感情でぐしゃぐしゃになっていたがそれを悟られぬように冷静なふりをする。それでも言葉尻が頼りなく揺れた。慣れないエスコートなんてするものじゃない。でも今日だけは特別な日だから。
エントランスを抜けてエレベーターに乗る。そして三階のボタンを押すとゆっくり上がっていく。ドアが開くまでの間、尊は隣でずっとソワソワと目線を泳がせていた。
エレベーターを出たらすぐ右へ。三〇二号室と書かれた部屋に鍵を差し込み捻る。ガチャリと解錠の音。ここまできて尊は慌てたように寿を制した。
「ね、ねぇ! ねぇってば! ここどこ? 誰の家?」
「俺達の家」
「へ?」
「俺と……尊の家」
尊の顔を見ずに──いや、見ることもできずにドアを開く。ドアの向こうには段ボールが所狭しと並んでいた。本当であれば尊を招く前にある程度片付けておきたかったのだが仕事やなんだで立て込んでいて思うように時間が取れなかった。どうも肝心なところで格好がつかない。
「どーよ」
「どうって」
「これから恋人になるんだろ? 俺から尊へ就職祝い。中古のマンションだし、バスに乗らないと駅まで遠いし……でも近くにファミマもあるし、スーパーもいくつかあるぞ」
「こ、寿が、買ったの? 僕の為に?」
「当たり前だろ。一人じゃこんなところ広すぎて持て余しちまう」
キョトンとした顔が次第にくしゃくしゃになり、瞳が潤んだと思ったら下まつげが受け止めきれずにポロリと涙となって溢れた。
「寿は僕と住んでくれるの?」
「最初からそのつもりだった」
「僕、家事なんて出来ないよ?」
「俺がやるからいいよ」
「やだっ! 僕も覚えるっ!」
「包丁で手ェ切ったりすんなよ?」
「大丈夫だもん。僕、なんだって出来るし!」
誰よりもひたむきに頑張る姿を寿は知っている。今思えば投げやりな自分とは正反対の真っ直ぐさに心を奪われたのだ。
「改めてこんなこと言うのはちょっと恥ずかしいけど」
出会いが闇オークションなんて、世界中どこを探したってそのようなカップルはいないだろう。だが二人は出会った。
そして、今。長い年月をかけて二人は再び結ばれようとしている。
「俺と一緒に生きてくれ」
コクンと尊が頷いた。ぐしゃぐしゃに泣きべそをかきながら。泣いてる尊も可愛いけれど、やっぱり笑っていてほしいから。
額に目蓋に頬に鼻に。そして最後に唇に。感情が赴くままにキスをした。
少ししょっぱかったけれど幸福の味がする。
二人の朝はいつも騒がしい。
「おい、尊! 起きろ! 起きろっつーの!」
最初の頃こそ寿の言うことを聞いていたのが今では幼い頃に逆戻りしたかのようにあれやこれやと世話を焼くように要求をしてきた。
「だぁー! 起きろ!」
「起こしてよぉ」
「もう二十二だろ! テメェで起きろ!」
「やだぁ…… 寿が起こしてくれなきゃやだぁ」
再び眠りの世界に落ちようとしたので伸ばされた手をそっと掴んで引き上げる。
「おはよ、ことぶき」
「本当……早く起きれるようになれよな。いつになったら自立出来るようになるんだ」
「自立、頑張るけど……寿がいるから平気だもん」
こんな風に言われてしまったらもうダメだ。甘やかしが加速してしまう。主人と使用人という立場から抜け出したというのに。何気ないやり取りですら愛おしいなんて、相当惚れ込んでしまっている。
ようやく起こしたと思っても半目でポケーっとしている。
寿が作った朝食(と言ってもトーストとスクランブルエッグという簡単なメニューだ)を平らげても寝ぼけ眼。口元にパンの食べかすをつけながら尊はうつらうつらしていた。
「おら、早く起きろってーの! もう俺は出るぞ!」
同じ職場にいるとは言え、寿と尊の業務は全く違う。清掃員の朝は早い。二人暮らしが始まっても寿の朝は尊よりも先に出る方が増えた。尊は車通勤ではなくバスで通っている。武内が「送迎だけでもやりたい」などと申し出ていたらしいが年齢を考えると厳しいのと、尊が「寿と対等にいる為に自分が自立した姿を見せたい」と言う希望を鑑みた結果、武内の申し出は丁重にお断りした。
「じゃあな! 戸締りしてけよ!」
「待ってってばぁー!」
ぺたぺたと足音が後から追ってくる。どんなに眠気があってもこうして玄関まで見送ってくれるのは嬉しい。まるで新婚みたいだな、なんて口にしたら顔を真っ赤にして照れていた。あの時のしおらしい尊を可愛いと思ったのはここだけの話。
「じゃあな。行ってきます」
「ねぇ、忘れ物!」
玄関先で向かい合うと尊が唇を尖らせてくる。毎度毎度よく飽きないものだ。でも寿も尊とのキスがないと一日が始まった気がしない。
「はいはい、いってきます」
唇と唇が合わさる。ぷにっという柔い感触を何度も啄むように味わった。今まで我慢させた分もした分も全部取り戻すかのように唇で愛する。
「じゃあな、また夜に」
「まっすぐ帰ってくるんだよ」
「オメーもな」
出かける間際に名残惜しくて振り返る。すると少しだけ寂しそうな顔をする尊。
ああもう、遅刻してもいいか。
本当はダメなんだけれど、もう一度だけキスをした。思い切りの愛を、五億円じゃ足りないくらいの重い愛。
きっと死ぬまで君を愛すよ。
みんなは信じないかもしれないけど──こんなおじさんの俺が闇オークションで五億円で買われた話。結末はどんなラブストーリーよりもハッピーエンドだ。
最初のコメントを投稿しよう!