二章

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二章

 宝来家の朝は早い。  朝五時きっかりに目覚ましがけたたましく鳴り響く。見慣れぬ天井に自分がどこにいるのか思い出すまで時間がかかった。段々と意識がはっきりして目が完全に冴えてもまだ夢の延長線に立っているような気分だ。  昨日尊に付き合って夜更かししたせいで身体が鉛のように重い。なんとか身を起こすが思考が纏まらず立ち尽くしてしまう。 「何からすりゃあいいんだ」  昨日は武内から身支度を整えて部屋で待機しているように言われた。言われた通りにスーツを着て鏡の前でヘアジェル片手に格闘する。こんな風に身支度を整えるなんて何年ぶりだろう。コンビニのバイトやタクシー運転手の時はここまでかっちりとした格好などはしていなかった。学生時代のピアノの発表会以来かもしれない。  ふと嫌な思い出が蘇る。どんなに頑張っても兄に勝てなかった自分。目鼻立ちや背格好はそっくりなのにピアノの腕前はどう足掻いても兄に届かなかった。父も母も音楽を生業にしている音楽一家に生まれた寿にとって、ピアノの成績だけが全て。いい成績を残せば両親に可愛がってもらえる。可愛がってもらえなかったのは寿がいい成績を残せなかったせいだ。  今思えばあの時から落ちこぼれのルートへと歩みを進めていたのかもしれない。今ではすっかり落ちこぼれ精神が骨の髄まで染み込んでいる。 「俺で本当に大丈夫なのか……」 「大丈夫か、ではなく大丈夫にするのです」 「うぉぉぉぉぉ⁉︎」  ため息をついていると後ろからヌッと武内が出てきたものだから奇声に近い声を上げて驚く。 「それだけ大きな声が出れば大丈夫でございますね」 「いつからいたんすか!」 「貴方がヘアジェルで髪を整え始めたくらいでしょうか」  だいぶ前からいたのなら声をかけてくれればいいのに。何の気配もなく背後に回ってくる辺り、武内が手練れであることを何となく分かる。 「普段から髪のセットをされてこなかったのですか?」 「そうっすね……」 「これは身だしなみの整え方から指導しなければなりませんね」  流石の武内もフォローが出来ないくらいの髪型。ヘアジェルをつけすぎてペシャンコになった前髪。カピカピに固まった髪はテカリ気味。清潔感とは程遠い髪型だ。 「とにかく時間がありませんから、取り急ぎ坊っちゃまを起こして来てくださいませんか?」  結局、不自然なぺたんこ髪のままで尊を起こしに行く羽目になった。きっと尊に揶揄われて馬鹿にされることになるだろう。これから始まる使用人としての生活。雲行きはかなり怪しい。  尊の部屋の前で何度かノックをしたが返答はない。武内いわく、いつもならもう起きていると聞かされていたがまだ寝ているのだろうか。昨日は寿のせいで夜更かしさせてしまったようなものだ。込み上げる罪悪感。ドアノブを握る。念入りに洗ったはずの手のひらはまだヘアジェルが残っているような錯覚に陥るくらい、手汗でベタついている。 「尊、入るぞー」  遠慮がちに扉を開けるとそこには幸せそうな顔で眠る尊の姿。薄く開いた口からすうすうと寝息が漏れる。起こすのが憚られるくらいの安らかな寝顔だ。 「おーい、起きろ」  身体を揺すっても起きる気配はない。一瞬顔を顰めたがまたすぐにスヤスヤと寝息を立て始める。 「遅刻すんぞ」 「うー……」 「遅刻したら、俺も武内さんに絞められるんだぞ」 「んぅ」 「おーきーろー!」  寝ぼけた返事しか返ってこないことに痺れを切らして布団を思い切り剥ぎ取る。温い布団を奪われ、いきなり外気に晒された尊はキュッと身体を丸めた。 「おい、起きろっつーの! もう六時だぞ。自分で起きれねえのか?」 「寿が起こしてくれるの、待ってた」 「目ェ閉じたまま言っても説得力ねーぞ」 「起きてるもん、寿の変な髪も見えるよ」 「じゃあ今すぐ身を起こせ」 「寿が起こして」  目を閉じたまま手を広げて寿に〝起こせアピール〟をしてくる。ここで甘やかしてはならない。ならないのはわかっているのだが……自分よりも小さな手のひらを見ているとつい甘やかしたくなってしまう。 「ほら、起きろ」  抱き抱えるようにして起こしてやるとギュウッとしがみついてきた。降ろそうとしても抵抗される。母親と離れたがらない幼児のように、寿の背中に腕を回して解けないように懸命に力を込めている。 「身支度しねえと朝ごはん間に合わねえぞ」 「……要らない」 「めっちゃ美味そうだったんだけど」 「寿にあげる」 「ダメだ。お前のために作ったやつなんだぞ」  もっと聞き分けがいいと子供だと思っていたのが予想以上にぐずられて戸惑いを隠せない。  昨日の尊の印象は勝ち気でわがままな部分もあるが父親や武内の言いつけをしっかり守る利口な子供だと思っていた。それがこうして幼児のように駄々をこねるなんて。新人の使用人だからと舐められているのだろうか。しかし、それにしては言動が幼過ぎる。まるで赤ん坊のようだ。 「ほら、尊。飯食って学校行かなきゃ」 「行きたくないよぉ」 「……帰ったら遊んでやろうと思ったんだけどなぁ」 「本当に?」 「ああ、本当さ」  すると先程まで閉じられていた目がパッチリと開いた。キラキラと期待の光を孕んだ眼差しで寿を見上げる。 「ねぇ、嘘じゃない? 今日は家庭教師の先生がいらっしゃるから遊べるの遅くなるけど、待っててくれる?」 「俺もやらなきゃいけねえこといっぱいあるから、お互い頑張ろうぜ」 「分かった! 約束だよ!」 「じゃあ、着替えて飯食いに行こう」  上手いこと誘導できた。足をばたつかせて降りたいと合図。抱き上げていた腕の力を緩めると自分から床に降り立った。後は着替えを終わらせて、食堂まで連れて行けば朝の任務は完了だ。 「……」 「ん? どうした?」 「ねぇ、寿が着替えさせて」 「はぁ?」  順調にいったとおもったらまた突拍子もない要求をされる。使用人はそこまでやるのか。だがどうも尊にお願いをされると叶えてやりたくなる自分がいる。 「……分かった。まじ間に合わねえから早く着替えるぞ」  パジャマのボタンを一つずつ外していく。まん丸な黒目がジィッと手元を眺めてくる。やけに熱っぽい目線。緊張でボタンを外す指先が震えた。
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