二章

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「すごい量だな……」 「今日はまだ少ない方だよ」  分厚い参考書にはいくつもの付箋が貼ってある。家庭教師との授業は帰宅してから三時間にも及んだ。途中、紅茶を持っていったが尊はこちらを見向きもせずに一心不乱に問題を解いていた。いつものように嬉しそうな顔で寿の名を呼ぶとばかり思っていたから拍子抜けしてしまう。少し自惚れ過ぎていたと反省しながら部屋を後にした。  長丁場の授業を終えて夕飯を済ませてから尊の部屋に向かう。ドアを開けた瞬間に尊が駆け寄ってきた。さっきの真面目な顔はどこへやら。寿を勉強机のすぐ隣に座らせるともちもちのほっぺを少し上気させて、得意げに寿に今日の宿題の内容を説明してくる。 「今日はね、数学だったの! 僕はあまり数学得意じゃないんだけど今日の抜き打ちテストで九十五点だった!」 「すげー……全然分からねえ」  中学三年生の範囲なんて大人になった今、全く覚えていない。ノートに書かれた記号に見覚えはあるが意味までは分からなかった。クエスチョンマークを浮かべる寿に、問題を解きながら一つ一つ説明をしてくれる。 「寿は数学、苦手だったの?」 「……数学、っつーか勉強はあまり得意じゃなかったな。塾とかも行ってなかったし」 「でも体育とか凄そう」 「まぁな。あとこう見えて音楽は得意だったんだぞ」 「パパと話してる時、ピアノ弾けるって言ってたもんね」 「学生時代はずっとピアノばかり弾いてたよ。うちは両親が音楽家で、兄貴もピアノコンクールでいつも上位に入ってたから……必死だった」  必然的に親はコンクールでいい結果を出す兄へ愛情や時間を割いた。どれだけ頑張っても見てもらえない。音大に入学したら何かが変わると思ったが、周りは皆レベルが高く、居場所を見つけられずに辞めてしまった。以降、アルバイトで食い繋いでいたが、兄が有名私立の音楽教師となったことを知ってとうとう家にも帰らなくなった。居場所も目的もないまま、アルバイト生活をダラダラ続けていたのだ。 「だから尊のことはすげえと思うよ」 「本当に?」 「ああ、本当にすげえ」  上手く褒めてやれないのがもどかしい。母親を早くに亡くし、宝来不動産グループの御曹司としての重圧もある中で与えられたことを不平不満も言わずにこなしている。誰もができることじゃない。 「僕がこの宿題、あっという間に終わらせたらもっとすごいって褒めてくれる?」 「終わったらな」 「すぐ終わっちゃうよ! 待っててね。僕、本当にすぐに終わらせちゃうんだから」  そう言い放つと尊は机に向かい始める。ノートと参考書と睨めっこしながら時折、寿の方に目線を寄越しては顔を綻ばせる。徐々に埋まっていくノート。それと同じようにして満ちていく寿の心。  尊は寿の何を気に入っているのか分からない。それでもこうして常に寿を気にかけて、共にいたいと言ってくれるのが嬉しい。  ずっと求められることに飢えていた。終わったと思った人生の続きでこうして求めてくれる人がいてくれるのなら、どんな高級車にだって慣れることが出来るし、どんな難解な仕事でも尊のために立ち向かっていける。  ノートに向かう直向きな横顔を寿はただ静かに見つめていた。  宿題を終えた尊に夜食を用意する。ドーナッツに林檎の香りがするフレーバーティー。お茶の淹れ方は武内からみっちりと指導を受けた。少々スパルタであったが、そのおかげでカップの温め方から葉を蒸らす時間まで頭にしっかりと叩き込まれている。 「寿も食べる?」 「いいよ。勉強の後は甘いモン食べたいだろ?」 「僕は寿と食べたいな」 「……分かった」  尊は手にしていたドーナッツを千切ると寿の口元へ差し出してきた。反射的に口を開く。するとそこにドーナッツが放り込まれた。 「美味しい?」 「うん」  まるで餌付けされているみたいで少し恥ずかしい。尊は寿にドーナッツを食べさせるのを気に入ったようで何度もドーナッツを千切っては寿の口に運ぶ。 「尊の分がなくなっちまうよ」 「甘いもの好きなんでしょ? 僕はあまりお腹空いてないし、寿に全部あげる」 「流石に全部は……」 「じゃあ寿が食べさせて」  あーんと大きく口を開けて強請ってくる。綺麗に生えそろった白い歯が眩しい。言われるがままにドーナッツを千切り、口へ運ぶ。 「美味しいね」 「これ、俺でも知ってる洋菓子の店だぞ……やっぱり有名な店は美味いんだな」 「寿は気に入った?」 「美味いと思うよ。武内さんから聞いたけど尊はここのオヤツ、大好きなんだよな?」 「うん。だからもっと食べさせてよ」  再び口を大きく開けて、おやつを強請られた。最後の一欠片を口元へ運んでやる。ふと見えた赤い舌がチロリと動く様子にやけにドキドキする。  そんな寿の心中を尊は知る由もなく、美味しそうに口をもぐもぐと動かしていた。パクリとドーナッツを頬張った瞬間、触れた唇の柔らかさがいつまでも指先に残って離れない。 (いくら可愛いからって……主人で、しかも子供だぞ)  変な気を起こそうとする自分を心の中で叱咤する。尊は確かに愛らしい。もちもちの頬も、大人になりきっていないすべすべの手も。そしてまん丸な黒目も、寿の中の庇護欲を掻き立てるには十分だ。  しかし、尊は自分の恩人なのだ。  尊が寿を選んでくれたお陰で今こうして、人としての新たな一歩を踏み出せている。護りたいと思うのは良いとしても、それ以上の感情は持ち合わせてはならない。 「あ、口に食べカスついてんぞ」  慌てて思考を切り替える。持っていたハンカチで口元を拭ってやる。まだまだ食べカスをつけるくらいにはお子様なのだ。 「ねぇ、寿」 「なんだ?」  この後、早く寝かせてやらなければ。昨日夜更かしさせてしまったから、尊も疲れているだろう。遊ぶのもほどほどにしないと。何よりこんなモヤついた気持ちで尊の側にいてはならない気がした。  尊はどんな遊びを提案してくるのだろう。ゲームか。それとも今流行りのアニメか。しかし尊の口から出た言葉は予想だにしない言葉だった。 「ねぇ、寿……ちゅーして」
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