二章

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 突然の命令に脳がフリーズする。 (ちゅー、つまりはキスってことだよな? これは俺に放たれた言葉……俺が、尊に? でも今この瞬間、この部屋には俺と尊だけだから、尊がキスしたいっつーのは) 「……寿?」  必死に状況を整理している寿を煽るかの様な上目遣い。そんなふうに見つめられたら何でも叶えてやりたくなる……が、寿も落ちこぼれと言えども倫理観までは捨てていない。 「その、キスは好きな人とするもんだから。だから彼女とか出来た時にしろ。おっさんとしても後悔するだけだぞ」  思春期の柔らかい心に傷をつけない様に戯ける様に口にして見せたが、尊の顔が僅かに強張る。 「寿のこと、好きだもん」 「それはダチとして、だろ? 好きっていうのは将来結婚したいとか、そういうふうに思える子って訳で」 「結婚とかは分からないけど、寿とはずーっと一緒にいたい……」  寿を一心に見つめる虹彩が揺れている。涙の水面で瞳の輪郭が滲んでいた。下睫毛が堰き止めているが、少しの衝撃で涙の粒がこぼれ落ちてしまいそうだ。 「俺はずっと尊の側にいるよ。だって尊が俺を選んでくれただろ? だから尊が必要とする限り俺はずっと側にいる」 「じゃあちゅーしてよ」 「ちゅーは結婚式までとっとけ」  尊ももう十五歳だ。〝好き〟という感情にも種類があるということを知らなければならない。どうやって言い聞かせてやればいいのか、言いあぐねていると尊が畳み掛けるように続ける。 「女の子じゃなきゃ、ダメなの?」 「そりゃあ、普通女の子とするモンだろ。キスは」 「……僕、やっぱり変?」  とうとう尊の大きな瞳からポロリと涙が溢れ落ちた。ポロリポロリと大粒の涙が頬を伝い、ポタリと落ちていく。ハンカチで拭おうとしても手で押しのけて拒絶される。 「変じゃねぇよ。上手く言えねえけど、色々な人がいるもんな。でも、俺はやっぱり……尊とそういうことは出来ねえよ」 「僕が男だから?」  正直なところ男や女といった性別的な括りが理由ではない。尊のことはとても愛おしいと思う。だがそれはあくまでも使用人として主人に向ける気持ちであり、性愛を含むものではない。そんなことあってはいけないのだ。 「尊が大事だからだよ」 「……よく分からない」  鼻をスンスンと啜りながらこちらを恨めしそうに見てくる。尊が泣いていると、寿の方まで悲しくなってくる。寿自身も今まで抱いたことのない感情に戸惑っていた。  護りたい、というにはやけに熱を孕んだ感情。  ポタポタと落ちる涙をただ眺めていることしか出来ない。頬にできた涙の跡を室内灯が照らし、光の筋となる。その筋を目線で辿る最中でふと〝ある疑問〟が頭の中に浮かんだ。 「なぁ、尊」  思えばいくつも不自然な点がある。闇オークションで尊が寿を選んだ理由。そしてやたらと懐く姿。遊び相手にしては近すぎる距離。そして他の人間には見せない甘え方。 「なんで、俺なんだ?」 「なんでって……」 「何となく。闇オークションで俺を買った理由とか、好きだっていってくれるのとか。俺は尊のお陰で救われたけど。ぶっちゃけそこら辺にいるおっさんだしさ」  伏せた目。黒々とした睫毛が大きな目を縁取る。尊は何かを言おうとしている様子だが、言い出せないのだろう。唇をもぞもぞと動かしたり、尖らせたりと落ち着かない。 「……似てるんだ」 「え?」 「僕の、好きな人」  まさかの答えに呆気に取られてしまった。世の中にはこんなゴツい女性がいるのか。ちょっと見てみたい気もするが……いや、目元だとかが似ているだけかも。としても相当目つきが悪い女性だ。あまりの突飛さに思考が散乱する。 「じゃあ、尚更ダメだろ。キスは好きな人としなさい」 「ダメなんだもん。その人は結婚してるから」 「結婚⁉︎」 「うん。奥さんがいるの」  結婚という言葉に再び言葉を失う。十五歳にして既婚者を好きになるなんて。しかも奥さんがいる、と言うことは相手は男なのか。何か言葉を返さないと、思っても言葉が上手く出てこない。 「寿を見た瞬間にね、その人と見間違えるくらいだったの。僕は使用人なんて武じいがいるから大丈夫って思ってたけど……寿を見た瞬間に、五億! って言ってた」 「つまり俺は、ソイツの代わり……ってことか?」 「違う。最初は確かに代わりなのかなって、感じだったけど……寿は優しいし、好き」  どこの誰かは知らないが、尊が誰かを想いながら自分に甘えていたという事実に寿は傷付いていた。急速に冷えていく心。こんなに求められたのは初めてでただ浮かれていた。だがそれと同時に「やはり俺が求められることはあり得ない」という諦めと納得が湧き上がってくる。 「ねぇ……僕のこと、嫌いになった?」  いよいよ本格的に泣き出した尊。嫌いになるとか以前に寿は尊の主人だ。尊が手を離さない限り、ずっと続いていく。 「嫌いになんかなれるか」 「じゃあ、ちゅーしないでいいから、僕といてくれる?」 「もちろん」  気付いたら手を伸ばしていた。抱き寄せる様に引っ張る。尊がそのまま寿の胸に飛び込んできた。抱き止める。ほのかにボディーソープの香りがした。心が、揺らぐ。 「ごめんね、寿。僕と一緒にいてね。お願いだから……」  この感情が何なのか分からない。哀れみでもない。性愛でもない。忠誠というにも少しズレている。  ただ尊に笑っていてほしい。  キスをしたら満足するのだろうか。でもそれはその場凌ぎでしかない。どうにも出来なくて頬擦りをしてやり過ごす。尊の鼻を啜る音が聞こえてくる。 「ずっと側にいてやるから安心しろって」 「うん」 「もう今日は寝ろ」  抱き抱えてベットまで運ぶ。そのまま寝かせてやると寂しそうな目でこちらを見上げてくる。そんな目をされたら一人残して部屋を出るなんて出来るわけがない。 「……寝るまでいるから」 「本当に⁉︎」 「ああ、本当さ」 「約束だよ! 寝るまで部屋出ちゃダメだからね!」 「分かった分かった」  ポンポンと緩やかなリズムで布団を叩いてやる。段々と降りてくる瞼。本人は抵抗しているが眠気には勝てなさそうだ。 「寝たくないよぉ……」  それは自分と共にいたいから? 自惚れの様な言葉を言いかけてグッと飲み込む。しばらくしてスヤスヤと寝息が聞こえてきた。
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