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壁を破る人
誰かと深く関わるのが苦手な私にとって、干渉してくる他者とは害悪そのものである。しかし、波長が合うというか、なぜか憎めないという人に、デイケアで初めて出会った。
極度のおっちょこちょいと言うべきなのか、病的にじっとしていられないのか、動きがいちいち騒がしい同年代の男性。私が点描画を描くために並べておいた水彩絵具で塗った小さな円を、次々と手に取って、くるくると指先で丸めてしまう。
画材を台無しにされた怒りよりも、まるで子どもの手遊びのように、夢中になって遊ぶ姿がおかしかった。しかも、すぐ飽きて何処かに行ってしまうところまで、子どもと大差ない。
「何の絵を描いてるの?」
戻ってきた彼が、私の真横にいる。距離感がいちいち近すぎるのがうざったいけれど、
「花の絵よ。花束を描いてる」
下絵から目を逸らさずに私が言うと、
「絵を描くくらいなら、本物の花を飾ればいいじゃん?貧乏なの?」
無神経極まりないことを彼は言ってのける。ただ、このデイケアに通って薄々気がついていたことがあるから、私は言い返さなかった。彼は、思ったことがそのまま口に出てしまうらしい。そういう病気があるのかもしれない。とにかく、見たまま、思ったままを口にする。
私は彼のあけすけな物言いが面白くて、
「絵に描いておけば、花束の花も枯れないからね。貧乏にはもってこいだわ」
皮肉を返してみるが、彼は皮肉を理解出来ない。
「そんなに貧乏なのか。花束が欲しいならあげるよ?」
私は、噛み合わない会話が滑稽で、堪え切れずに笑ってしまう。
「何が面白いの?」
私の顔を覗き込む彼の顔は、瓜実顔で、ぱっちり二重、ビー玉みたいな真ん丸な目で、美しい。この言っていいことと悪いことがわからない、落ち着きがないという悪癖さえなければ、相当女にモテるだろうなと、人間関係が苦手な私でも察しがつく。私は何を言うか予想もつかない、びっくり箱みたいな彼の発言が面白くて、
「花束を貴方に貰う理由がないわ」
からかってみる。すると彼は、
「花束をあげるのには理由がいるの?」
大真面目に聞いてくる。本当に冗談が通じない。私はこの見目麗しい男を慌てさせたくて、
「ええ。恋人や夫婦が愛を込めて贈るものよ」
彼だけに聞こえるように耳打ちした。彼は、真に受けて、乳白色の肌を桃色に染めて、
「えっと…貴女の絵が好きっていう理由じゃダメ?」
真っ直ぐ私を見てくる。作業療法士の茂木さんと違って、嘘のない目だ。私はからかい過ぎるのも良くないと思って、
「ダメじゃない。貴方がくれた花束を描いてみたいわ」
微笑み返してから、絵の続きに戻った。
そして、デイケアの昼休みに彼は早速花束を買ってきて、みんながいるのも構わずに渡してきた。作業療法士の茂木さんが、眉を寄せて困ったことになったという顔をしている。
「ありがとう、モチーフを買ってきてって頼んだんです、私が」
みんなの手前、最もらしい言い訳をすると、彼は怒り出した。
「違う!花束を描いてみたいって君が言ったんだ!」
彼は何処までも正直なのだ。茂木さんが間に入って、
「槙村君が言ってることと、見目さんが言ってることは同じ意味だよ。槙村君は怒ることないし、人とあまり話さない見目さんが話せるようになって良かったね」
私たちの間をとりなす。同じ意味だと気がついた彼、槙村君は怒っていたのを忘れたようにケロッとしている。私は槙村君が買ってきてくれた花束を丸く切り抜いた紙を絵具で染めて、貼り付ける点描画を描き始めた。
興味津々の槙村君に何度も邪魔されながら。でも、それが妙に心地良かった。私の壁を破って中に入ってきた彼は、嘘のつけない人だから。
くるくると目まぐるしく変わる槙村君の表情を見て、私は構図を変えた。花束を見て笑った彼の横顔を入れた。飽き性の槙村君は途中で居眠りを始めて、絵が出来上がって起こすと、開口一番こう言った。
「俺もいる!みんな見て!スゲェ綺麗!」
私は、幼稚園で一緒だった、あの鼻水男子を思い出した。デイケアで他のプログラムをしていた人達も集まってくる。デイジー、薔薇、チューリップ、フリージア、スイートピーの花束とそれを見つめる槙村君の絵。
「見目さんの絵で、初めて人がいるね」
古株の50代の女性の赤井さんが、私と槙村君を交互に見て、意味深に笑う。私はすっとぼけて、
「モチーフ買ってきてくれてお礼です」
淡々と話す。気難しい30代男性の佐藤さんが、
「印象派って感じだったけど、ポストモダニズム的に変わった。殻を破ったかな、色彩が鮮やかで、生命の息づかいを感じるよ」
評論家気取りで解説してくる。人の評価なんてどうでもいいと思っていたけれど、絵一枚で色々な人と繋がれるのか…。
それに…。
槙村君がニコニコと、自分のことのように喜んでくれている笑顔が、一番嬉しかった。彼は病気の特性なのか、嘘がつけない。茂木さんの障害者文化祭に出さないかという誘いに、今なら乗ってもいいような気がしてきた。茂木さんは、自分の実績として誇りたいという邪心がある。でも、少なくとも槙村君に邪心はない。
文化祭に出すことで、槙村君が喜んでくれるなら、それもアリかな…。
私は、茂木さんと槙村君に障害者文化祭に出してみたいと話をした。
「オー!俺が、モデルデビュー!」
槙村君はノリノリで、茂木さんも、
「見目さんの絵にはね、繊細さがあっていいと思うよ。見た人が忘れられない何かがある」
目の奥の表情に嘘はないように見える。もしかすると私は、人に利用されていると警戒し過ぎていたのかもしれない。幼い頃に天才画家とテレビで持て囃されて、ピークを迎えた後は、ただの凡人に成り下がった自分を卑下していた。
嘘がつけない素直過ぎる槙村君が、私の心の壁を打ち壊してくれたのかもしれない。
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