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私はこだわりにとらわれている
丸く切り抜いた直径3cmの白い円の形の紙。その小さな白い円が私のキャンバス。
私は子どもの頃からひねくれていた。画用紙一杯に、クレヨンを使って、カラフルではみ出すくらいの元気に絵を描きなさいという幼稚園の先生が大嫌いだった。太陽はオレンジや赤じゃないし、空は水色一色じゃない。お友達の髪の毛も真っ黒じゃなくて、光に当たると虹色に反射する。ステレオタイプのお絵かきを望む幼稚園の先生から配られた画用紙を鋏で小さく丸く切り取って、限られた12色のクレヨンで丸く切り取った画用紙を塗る。
絵が苦手でボーッとして、クレヨンも持たずに、鼻水を垂らしてる隣の男の子の画用紙をひったくって奪うと、糊でペタペタと塗った丸を貼り付けていく。動きも喋りもスローモーションの鼻水男子が、目を輝かせて早口になる。
「スゲェ!先生これスゲェよ!」
早口で喋っても、鼻水男子はあまり賢くないのでスゲェとしか表現出来ない。先生が何事かと近寄ってくる。
「美花ちゃん、ダメでしょ。お友達の画用紙を横取りしちゃ…」
先生は私から取り上げた画用紙を手に、怒ろうとしたのに、黙りこくった。私はあのときの、あの驚きと戸惑いを隠せない先生の表情を20年経っても、昨日のことのように思い出せる。幼稚園の花壇で育てているチューリップを、点描画の要領で描いた、年長さんの六歳。
赤、白、黄色のクレヨンでチューリップの花を単色で描く子ども達の中で、私は浮いていた。
(どうしてみんな、影の色に気がつかないの?)
先生は、立体的で陰影がついたチューリップの花を見て、私に対する態度を変えた。
「美花ちゃん。画用紙がもう一枚ほしいときは、先生に言いましょうね、わかった?」
猫なで声のような優しい声に変わった。そして、しばらくすると、お母さんと幼稚園の先生が何か話し合いをして、幼稚園と家に大きなカメラを持った大人が何人も来た。
お母さんと幼稚園の先生は、カメラマンが来ると、顔の皺が目立たないように、目を見開き、唇を目一杯吊り上げて笑っていた。
私はテレビに映った自分の姿を不思議な気持ちで眺めていた。何を聞かれたかとか、テレビに映ったことよりも、テレビの色がおかしいことに気がついて、不快だった。
「ママ、テレビの色がおかしいよ」
私は、リモコンをカチャカチャいじくりまわす。お母さんは嬉しそうに、
「美花は天才だわ!色の微妙な違いが気になるのね!」
興奮気味に、テレビの色彩補正の項目をリモコンで出して、私に渡してくれた。私はテレビが来たあの日の薄曇りの天気を思い出し、自分の肌や髪の色を観察しながら、テレビの色を直した。直す前のテレビは少し白っぽかったから。
私のピークは幼稚園生の頃で終わった。小学生になると、屁理屈をこねて、こだわりが強い、扱いにくい子という評価に変わった。自分がもうわかっているのに、出来ない子に合わせて一桁の足し算や掛け算を延々と続ける授業が嫌いだった。自分が理解出来たら、違う教科の教科書を開いて勝手に勉強したり、図書室で借りた本を読んだり、丸く切り取った円に色を塗って糊で貼り付ける、点描画の絵を描いていた。
先生に当てられると、最初のうちは答えていたけど、飽きてくると、
「もう、私は理解してるから答えません」
起立もせずに座ったまま答えて、本から目を逸らさない。理解してないことを学ぶことが勉強なんだから、分かってる人に答えさせる意味なんてある?私は教室の異端児で自由人だった。
大学までは、風変わりな自由人で済んだのに、社会人になると、勝手なことをするなと叱られてばかり。人生を絵に例えるなら、キャンバスが急に狭くなって、身動きが取れずにはみ出した人物像のような感覚に陥っていった。
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