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unnatural (不自然な違和感)
煮物を口に運んだとき、然は舌が異常に熱を持つのを感じた。それと同時に全身が痒くなり、皮膚が紅潮する。息苦しさを感じた瞬間、テーブルの前に座っている紫が笑ったように見え、目を疑った。
がたんがたんと人形のように身体が床に投げ出される。
ヒュー、ヒュー、と気管が狭くなったような呼吸を繰り返す。
それを見た紫は席を離れた。
彼女は寝室に向かったかと思うと細長い箱を持ってきた。アナフィラキシーを起こしたときのために処方されていたアドレナリンの自己注射製剤だ。紫は中身を取り出すと、迷いなく然の太腿に針を刺した。
「然くん、大丈夫? 苦しいよね? ゆっくりと息をして、わたしが一緒にいるから、大丈夫だよ」
手を握られ、霞みがかった紫の輪郭がますます曖昧になる。
然の思い違いでなければ、紫にこの注射のことは告げていなかった。
亜未しか、このことは知らない。
三年前、ここに越したときに注射の場所を決めたのは亜未だ。
―――もし、アレルギーが出たら、わたしが急いで注射するからね。
彼女はそう言っていた。
「然くん、楽になった?」
いつの間にかソファで横になっており、顔を覗き込まれ、亜未では無いことにほっとしたような、恐ろしい気持ちが戻ってきたような気になる。
「あぁ、……もう大丈夫」
「ごめんね。料理を作ったわたしのせい……」
首を振ったが、簡単にいいよ、と許せる苦しさではなかった。脂汗がまだ額の奥から込み上がってきそうな気がしていた。
「お水、置いとくね」
透明なグラスがサイドテーブルに置かれ、紫は料理をゴミ箱に入れ始めた。
「……紫?」
一心不乱にゴミ袋に料理を捨てている。身につけたエプロンが亜未のものであり、リビングに入ったときはギョッとしたが、今もさらに動揺した。
この行動が、亜未、だったからだ。
以前、買ってきたサラダに小麦粉の表記はなかったのにも拘らず、同じ部屋で小麦粉を含んだ惣菜を作っていたのか、然が食べると舌が腫れ、今日ほどではないがアレルギー反応が出た。亜未は救急車を呼ぼうとしたが、然は軽症であるためタクシーを呼んだ。亜未はサラダを親の仇のように忌々しく睨むと、ゴミ箱に投げ入れた。
シンクロした風景はそれだけではなく、机に置かれたダイレクトメールの仕分けや服装、言葉使い、そして、極め付けはセックスの後に一緒に風呂に入りたがらないところで違和感は顕著になった。
紫はもっと子供っぽく、欲求には正直だ。
わがままも言うし、ベタベタと年下の特権とばかり然に甘えてくる。
反面、亜未は理性的で落ち着いているが、一度、激しい感情を持つとそう易々と気持ちは収まらない。浮気を問い詰められたときもそうだった。
呼吸が落ち着くと、頭は幾分か冷静になった。
「……紫、ありがとう、水をもらうよ」
口に含み、体を起こすと紫はキッチンで片付けをしていた。
「……わたし、洗い物が終わったら、もう帰るね」
「……あ、そうだな。色々、迷惑かけてごめん」
「いいよ。夫婦、になるんだもの」
ぽってりとした唇とその下の黒子。
猫目を輝かせ笑う彼女は紫そのもの。
けれど、以前の彼女ならこのような言葉は返さなかったはずだ。注射の場所も知らないだろうし、扱えるような知識も度胸も持ち合わせていないように思う。それに、そもそも料理などするタイプではない。紫の部屋には小さなフライパンがひとつあるだけで、料理道具に微塵の興味もなかった。ブランド物のバッグや変わったアクセサリー、化粧道具に彼女の関心は向けられていた。
料理に興味があったのは、むしろ……。
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