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一歩、また一歩と然に近づく。
然は逃げるように、まだ紅潮した全身を引き摺って亜未から距離を取ろうとする。
「や、やめろ。頼む、殺さないでくれ」
「……もっとお願いしてみて」
更に然は顔を青ざめた。
「お願い、だ。殺さないでくれ」
亜未は刃先をまっすぐと然に向ける。
「……そんなもったいないこと、するわけないじゃない」
小さく呟いた声は近づいてくるパトカーのサイレンにかき消された。
「ねぇ、然くん。わたしのこと、愛してる?」
返事をしない然に、亜未は刃先を喉元に突きつける。
「ねぇ、どうなの?」
「……ぼ、くは」
「……うん、何?」
「誰も愛していない」
亜未はその返事を聞き、口端を上げた。頬を上げ、笑顔を作る。
「そう。……それは、可哀想ね」
然は亜未の隙を狙って、玄関に四つん這いで逃げようと手を伸ばした。だが、それは亜未の体で阻止され、包丁は目の前に突きつけられた。
サイレンがマンションの前で止まり、エンジン音が途切れる。ばたん、ばたん、と車のドアが閉まる音。何人かの足音、ざわめく空気と、近くの住民が顔を出したのか人々が何事かと騒ぎ出す声。
「然くん。これからのお話、聞いてくれる? この前、警察に亜未だったわたしの写真を見てもらったの。そして、隣の奥さんが居なくなったってことと、然くんに付き纏われてるってストーカーの被害届も出して来た。この包丁はね、今からわたしの正当防衛になるの。包丁を持って、わたしの家に入って来た然くん。怖いよね。揉み合っているうちに、包丁でわたしは誤って然くんを刺しちゃうの。でも、殺さないよ。すぐに救急車を呼んでもらうからね。だって、痛いのは辛いでしょう? 死んでしまうのも辛いよね? でも、すぐに終わるからちょっとだけ我慢してね」
然は、逃げ惑うように玄関へと向かっている。
「背中に包丁を刺すと防衛にならないよね。やっぱりお腹かな。それとも胸かな? 然くん、どこが良い?」
首を激しく振り続ける然に、亜未は笑いかける。
「そんなに遠慮しないでよ。わたし達、夫婦でしょう?」
「お、前、なんかとは夫婦じゃ……」
「違うの? 二回もプロポーズしてくれたじゃない」
「違う。僕は紫にーーー」
「わたしが更科紫よ」
亜未は、紫の頬にゆっくりと包丁の刃を寄せた。
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