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頬にツーっと赤い線ができ、然は怯えたように亜未を見た。
「なんで、自分を……」
「正当防衛って、説得力がいるのよね。可愛い顔から血が出てるだけで、被害者はどちらか明白でしょ? 」
逃げる然の腕を持ち、無理やり手に包丁を握らせようとすると刃先が惑う。
「はっ……、なせ」
危ないなぁ、と亜未は指紋が確実についたであろう柄をもう一度握り直し、然の足をおもむろにひっかけた。
がだん、と派手な音がリビングから玄関に伸びた廊下に響く。
然は腰が抜けたまま、後退りながら、亜未を見上げた。
「ひっ、」
逃げ惑う然の扉の向こうで、何人かの足音が家の前を通りすぎた。
ピンポーン、ピンポーン、ピン、ピンポーン。
隣の家のインターフォンが何度も鳴る。
久遠さん、久遠然さん、御在宅でしょうか。警察です。扉を開けてください。奥さんのことについて詳しいお話をお聞かせ願えませんか。
ドンドンドン、久遠さん。居ませんか。
御在宅なのは確認が取れております。立て籠っても無駄です。
丁寧だが、太い威圧的な声が次々と並ぶ。
扉を叩く音、パトカーのサイレン、荒々しい足音。
亜未は、あーあ、と笑う。
「警察が来ちゃった。どうする? 叫んでみる? あ、この場合、叫ぶのはわたしだね。キャーって言ってみようか」
紫が引っ越して来たときのように小首を傾げる。然が、すごく可愛いと褒めた仕草で、愛らしく彼を見つめる。
「頼む。許してくれ」
然は足が立たないのか、無様な姿勢のまま震える声で告げた。
亜未は、子供に語りかけるよう、丁寧に言葉を紡いだ。
「然くん、愛してるわ。許すとか、許さないとか、そんなものじゃないの。……誰にも、渡さないからね」
亜未は想いのすべてを持っているそれに込め、然の体に強く差し入れた。鈍色に光る刃物が体に埋まり、床には血がじんわりと丸く広がっていく。
果てなく拡がるその色は、紫の顔に滲むものと同じで、耳につけたピアスの折鶴のように、どこへも行くことのできない、限られた場所でしか存在できない赤だった。
ー終ー
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