「ハイライトと十字架」

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「ハイライトと十字架」

 壁掛け時計の針が秒を盗む。午後十一時五十八分。オフィスビル八階。真白杳は事務用チェアの背もたれに体を預け、天井のタイル目地を眼で追っていた。壊れた蛇腹のブラインドの間から月の光が僅かに差し込んでいる。真白はデスクトップパソコンのキーボード上に指を乗せたまま、無意識に人差し指の腹で同じキートップを叩き続けていた。画面上には、繰りかえされる『G』の文字があった。時計の秒針が、はめ込まれた硝子の内側で滑らかに廻りつづけた。  窓際の座席には既にマグの底で干涸らびている徳用紅茶のティーバッグと、形の整った黒のブランドポーチとがある。日めくりカレンダーには「十二月二十五日 大安」と書かれてあった。真白はおもむろに席を立つと、無言で日めくりカレンダーの日付を破り、十二月二十五日を裁断機に掛けた。シュレッダーは無機質に紙を呑み込んだあと、聖なる日をただの紙屑に変えて吐き出した。ディスプレイの前に戻った真白は、書式のセルを埋め尽くした『G』をまとめて選択し、デリートボタンを押下した。この部屋には、聖クリストフォロスのメダルも、ゴミ置き場に棄てられた鳥籠も、名前のない猫も、神様もいない。整備済みの空調が、真白のことばを掻き消していった。  テンキーを叩く音が室内で反響する。真白の中をいくつものランダムな数字が無数に通り抜けていった。一通りの入力がなされたあと、Enterキーを小指で静かに落とした。『書面を保存』をクリックし、ウィンドウを閉じると、時刻は午前零時を回った。PCをシャットダウンし、机上灯を消し、空調をオフにすると、真白は縦隊のように列をなすデスクの間を抜けて、オフィスのドアノブを回した。片手には黒のブランドポーチを抱えている。掲示物の貼られた廊下の角を曲がり、ひと気のない突き当たりまで来ると、一度後ろを振り返り、化粧室の中にさっと姿を隠した。路地裏へと姿を消す黒猫のように。  入り口の全身鏡に、真白の立ち姿がくまなく映し出されている。履き潰されて角の擦れた紺のパンプス、膝に小さな孔の開いたベージュのロングストッキング、量販店の特価オーダースーツ上下、淡いブルーのブラウスの襟には糸のほつれがあり、ダークブラウンで染められた髪には、ヘアアイロンの巻き癖がついていた。  両眼の下には学生の頃から取れない隈が縁取られていたが、その瞳だけは、たったいま磨き上げられたばかりの黒曜石のような艶を帯びていた。ちょうど真白の指先が、ポーチのファスナーに触れたところだった。
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