「ハイライトと十字架」

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 ロゴの入ったファスナーの引手を滑らせる。中には円筒形の小さな物体が収まっている。真白はそれを抜き身の刀のようにポーチから引き抜くと、掛けていた銀縁の眼鏡を外し、蛇口の後ろにそっと置いた。鏡面に映し出されたもうひとりの真白の手にはI字型の電気かみ剃りがしっかりと握られている。真白は左眼を隠すように手をかざし、眉の下に添え、I字かみ剃りのスライド式スイッチをオンにした。夏の蝉の羽音に似た、電気かみ剃りの刃が振動する音がした。   眉間からかみ剃りを左へと払う。上眉の端から端まで、刃先は正確な直線をなぞった。その手に迷いはなく、握られたこぶしには、指の関節の小さな骨が浮き出ている。剃り上げられた眉の跡は、定規で引いたような水平を保っていた。僅かに盛り上がった皮膚が摩擦で紅く滲んでいる。  鏡の中の真白が腕を降ろしたとき、「彼女」が唇の端を上げもせず、下げもせずに、ただそこに佇んでいるのを知って、真白は思わず微笑した。わたしたちはもう他人だわ。真白は胸の内で繰りかえした。十字のお守りを握りしめるように。鏡の中のもうひとりの「彼女」がにっこりと笑った。片眉は薄く剃り落とされたまま。  左の甲で右眼を隠し、もう一度眉間から外へ向かって払ってゆく。今度は右へ流すように。振動するモーター音とともに刈り揃えられていく上眉を、真白は片目で追った。眉は取り替えられる平均台のように次第に幅を細くしていった。眼鏡を外したまま、真白は手慣れた様子でかみ剃りの刃先で直線を引いた。両眉を剃り上げると、真白はスイッチをスライドし、かみ剃りの電源を落とした。かみ剃りの刃が止まった途端に、化粧室内のすべての音が溶けていった。高い位置に取り付けられた小窓に隙間風が吹いている。窓の桟には破れかかったクモの巣が張っている。その糸の間を伝って、水滴が死に際の血の暗号のように垂れ落ちていく。真白は両腕をだらしなく下ろし、かみ剃りの柄を握ったまま、意味もなくスイッチを入れたり、落としたりしていた。そしてもう一方の空いた手の指先で、首筋の細い動脈を探り当てると、血管の浮き出た首元に向かって、刃を当てた。落としたスイッチを再び押し上げようとしたそのとき、廊下を歩く誰かの足音がした。手早くポーチにI字かみ剃りを放り込み、急いで眼鏡を掛け直すと、間髪入れずに化粧室の外に出た。廊下へ一歩踏み出した瞬間、フラッシュで焚いたような光が真白の顔に当てられた。 「あんた、何をやってる?」  懐中電灯をかざした白髪の警備員が言った。べっ甲の眼鏡の奥には疑わしげな眼が覗いている。 「いえ、あの、残業で遅くなってしまって……」  真白はポーチを隠すように持ったまま、警備員の脇を通り過ぎようとした。警備員は腕時計を何度も指先で叩いて言った。 「八階のひとだね。もういくら何でも門限過ぎてるよ。あー、記録付けることになってるから。名前は? ……ねえ、ちょっと待ちなさいよ」  警備員は踵を返し、通り過ぎていった真白のあとをゆったりした足取りで追いかける。真白は無言でエレベーターを呼び出した。下りボタンを押し、間もなく扉が開く。素早く身を滑り込ませると、地上階のボタンを指で叩き、「閉」ボタンを連打した。警備員は慌てもせずに呆れ返った様子で、エレベーターホールから数メートル離れたところで、帽子のつばに手をかけたまま固まっていた。 「あんた、何か……おかしいよ」  閉じていくアルミニウムの扉の間で、真白は警備員の足下にある灰色のコンパスの装飾を見つめていた。エレベーターの階数表示が下っていく。 「クリスマスは終わり、神様はもうここにはいない」無人のエレベーターの中で、真白は吐き出した。  それから、キートップを叩き続けてできたひと差し指のまめの皮を、固くなった親指の爪でそっと押し潰した。  ビルの正面玄関にある重いガラス戸をこじ開けると、真白はイルミネーションの電飾の残る通りへ向かって歩きはじめた。そしてまだ明けたばかりの十二月二十六日の夜の中へ、姿を消した。
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