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第6話 紅龍芸術劇院②
ホールやロビーを通り抜け、さらに展示室や集会室を通り過ぎた奥に事件現場となった楽屋があった。
楽屋の近くには搬入口やリハーサル室があり、観客は立ち入れない区画になっている。そのためホールやロビーにくらべると内装も質素で、床もフローリングだ。
手前には楽屋事務所があり、その奥に伸びる廊下には三つの楽屋が並んでいた。雷龍と影剣が案内したのは、ちょうど一番奥にある第三楽屋だ。
「入れ。この楽屋の奥だ」
楽屋は雑然としていた。元は広い部屋なのだろうが、物があふれているため、ひどく手狭に感じられる。化粧品やメイク道具、弁当の容器や飲みかけのペットボトル、衣装や靴、小道具などが事件が起きた当時のまま散らかっていた。
ここで殺人事件が起きたとはにわかには信じがたいが、化粧台やロッカーがEの字型で配置された楽屋の奥に目を転じた深雪はドキリとてしまう。
床には血糊がべっとりと溜まり、化粧台の鏡やロッカーには血痕がすさまじい勢いで飛び散っていた。
深雪はぎょっとして楽屋の入口で足を止めてしまうが、流星や影剣たちは平然と中へと入っていく。
「被害者の遺体は運び出したあとか?」
「ああ。KiRIは全身を刃物でめった刺しにされていたそうだ。第一発見者の衣装係がマネージャーを呼び、マネージャーが救急車を呼んだ。KiRIは病院の搬送中に息絶えたそうだ……死因は失血死。KiRIの遺体は検死するため、病理専門医のもとに運ばれたと聞いている」
「凶器は?」
「《収管庁》が派遣した民間科捜研とやらが回収していったぞ。奴らは事件現場に入って指紋や証拠となりそうな物を、あらかた持ち去った。連中のほかには現場には一切、手を触れていない。我々を含めてな」
一方、深雪はシロや神狼と離れたところで事件現場を見守っていた。
「すごい血飛沫だね……」
シロが小さな声で言うと、神狼も表情を硬くして頷く。
「あア。よほど激しく斬りつけないト、こうはならナイ」
「相手をこんな風に傷つけるなんて、よほど強い感情があったとしか思えない。もし本当に滝本が犯人だとしたら……KiRIのことが好きだったのかな。KiRIは滝本をどう思っていたんだろう?」
深雪がつぶやくと、それを聞きつけた雷龍が強い口調で吐き捨てた。
「実のところ、二人の関係がただのアーティストとファンだったのか、相思相愛だったのか……そんな事はどうでもいい。《アラハバキ》に報復すべきだとの声が日に日に大きくなっている。それぐらい《東京中華街》のゴーストはみな憤っているんだ!」
「……」
流星は牽制するような視線を向けるものの、雷龍の怒りはそんな事では到底、収まりそうにない。
「KiRIのライブは動画配信されていて、《監獄都市》の外でも高く評価されていた。コンサートを目当てに《東京中華街》を訪れる観光客も多く、KiRIは《東京中華街》の誇りだった。今回の事件は俺たちの誇りを《アラハバキ》に踏みにじられたも同然だ!」
雷龍は誰憚ることなく《アラハバキ》を罵倒する。《休戦協定》が結ばれて以来、《レッド=ドラゴン》と《アラハバキ》との間に大きな抗争は無いものの、対立が完全に無くなったわけではないのだ。
《アラハバキ》が黒幕であろうとなかろうと、はやく事件を解決しなければ大変なことになる。
深雪が危機感を抱いていると、神狼が不意にしゃがみ込み、顔の片側を床につけて何かを探すような姿勢になる。深雪とシロは互いに顔を見合わせると、神狼に声をかけた。
「神狼? 何してるんだ?」
「いヤ……ちょっト気になることがあル」
「気になるって何が?」
「まダ分からなイ。でモ、何か違和感があル」
「何かシロたちに手伝えることある?」
「いヤ……もうちょっと自分デ調べてみル」
一方、流星は楽屋の中を見回しながら雷龍たちに質問を続ける。
「KiRIはゴーストだな?」
「そうだ」
「彼女のアニムスは何だったんだ?」
「《増幅器といって人の心を動かす力だ。聴衆に癒しを与えたり、喜びや悲しみ……時に興奮をも与える。歌にはもともと心を動かす作用があるものだが、その作用を最大限に引き出せる能力……と理解してもらえばいい」
「なるほど。つまりKiRIは歌そのものが上手いってわけじゃなく、アニムスで聴衆を感動させてたってことか」
すると突然、楽屋のドアが勢いよく開け放たれ、スタッフと思しき女性が怒鳴りこんでくる。
「バカ言わないで! KiRIのアニムスにそういう作用があったのは事実だけど、それだけで彼女がトップアーティストになったと思ってるなら大間違いよ!」
「ええと……彼女は?」
「蘇遥。KiRIのマネージャーだ」
蘇遥はホワイトベージュのパンツスーツを着こなし、いかにも仕事のできるキャリアウーマンといった雰囲気の三十代後半の女性だ。明るく染めた髪を後ろでまとめており、細縁の赤いメガネが印象的だ。
いつの間に集まったのか、彼女の他にも大勢のスタッフと思しき人々が不安げに廊下から楽屋の中を覗いている。
影剣によると、彼らはメイクや衣装係、美術スタッフや照明スタッフだそうだ。みなKiRIのライブを陰に日向に支え、ともに公演を盛り上げてきた『戦友』だという。
マネージャーの蘇遥は流星へ抗議を続ける。
「ライブやコンサートは総合芸術よ。KiRI本人の歌唱力や存在感はもちろん大事。でも衣装やメイクだって重要だし、舞台美術や照明、音響、プロモーションやイメージ戦略だって同じくらい重要なの! すべて要素が噛み合って初めてKiRIのライブは成功するのよ!!」
「失礼ですが、それならKiRIの代わりは誰でもできるのでは?」
流星がそう返すと、勇ましかった蘇遥の口調は途端に沈みこんだ。
「……そうはいかないわ。確かに歌の上手い歌手や美しい歌手はいくらでもいるでしょう。でもKiRIの代わりなんていない。KiRIにはね、並み外れた魅力があったの。みんなが彼女の才能に惚れこんで、彼女と一緒に仕事をしたい、力を貸さずにはいられない……そう思わせる吸引力があった。自分の持てる最高の技術が彼女の作品の一部となっていく―――劇院のスタッフは私を含め、その瞬間が嬉しくてたまらなかった。あれほどのスター性を持ったアーティストが再び現れるか……それは分からないわね」
マネージャーの蘇遥が深いため息とともに言い終えると、他のスタッフも同様に肩を落とす。中には強い怒りを浮かべて拳を握りしめる者や、顔を両手で覆ってすすり泣く者さえいた。
みなKiRIの死を心から悼み、悲しんでいる。ずっと共に働いてきた歌姫が、信じられないような惨たらしい殺され方をしたのだ。彼らが衝撃を受け、悲嘆に暮れているだろうことは想像に難くない。
(KiRIは慕われていたんだな。みんながその才能に惚れこみ、全力を尽くして協力したくなる歌姫……か。すごいカリスマ性を持っていたんだ)
彼女のコンサートライブの驚くほどの完成度の高さは、KiRIのカリスマ性や人柄があってこそなのだろうと深雪は納得してしまう。
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