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しかし、祝宴会が終わって大会場ホールを退出した神獄は、そのまま一般客室へと向かった。そして客室に到着するや否や、ふらりとよろめいてしまう。
後ろに付き添っていた黄鋼炎は慌てて両手を伸ばし、神獄の華奢な体を支える。
「神獄さま! 大丈夫ですか、神獄さま!?」
しかし、神獄は呼吸が荒く、顔色が悪い。膝から崩れ落ちるようにして倒れ込む神獄を、鋼炎はその太い腕で抱きかかえる。神獄は弱弱しく微笑み、申し訳なさそうに言った。
「どうやら……《アニムス抑制剤》の効果が切れてしまったようですね……」
「お待ちください、すぐに手配しましょう」
鋼炎はすぐさま神獄に処置を施している専属の看護師を呼び出した。最近はどのような時でも必ず彼女を同伴させている。それほど神獄の体調は不安定なのだ。
その間に鋼炎は神獄を抱きかかえ、客室のベッドに寝かせた。すぐさま看護師がやってきて、常備しているリキッドタイプの《アニムス抑制剤》を神獄に投薬する。
だが、彼女の表情は芳しくない。
「……しばらくしたら薬の効果があらわれると思います。ただ……」
看護師が言いよどむと、神獄は静かに首を振った。
「分かっています。効き目が弱くなっているのでしょう? 原因は薬ではなく、私の方にあるのですね?」
「お力になれず申し訳ありません……!」
「いいえ、謝ることはないわ。あなたの処置はいつも適切ですもの。……ありがとう。鋼炎さんと二人きりにしてください」
看護師は神獄に礼をすると静かに部屋を出て行く。それを待ってから神獄は目線で鋼炎にそばに寄るよう促した。
看護師が処置をする間、壁ぎわに控えていた鋼炎はベッド脇に膝をつくと、神獄のほっそりとした手を握りしめる。
その大きく角張った手を握り返しつつ、神獄は小さくつぶやいた。
「《アニムス抑制剤》もいよいよ効かなくなっている。私の命ももう長くは無いのでしょうね……」
すると鋼炎は激しくかぶりを振った。
「そのような弱気なことを仰らないでください。あなたは我々、《レッド=ドラゴン》に必要な方です。亡き紅神獄さまの身代わりをあなたが引き受けて下さらなかったら、《九尾狐》は消滅していたし、《レッド=ドラゴン》も黒家一派の思うがままに支配されていたでしょう……あなたは我々の窮地を救ってくれたのです」
「それは違います、鋼炎さん。黄家も私を受け入れ、力を貸してくれたではありませんか。あの頃の私は、ただの無力な小娘に過ぎませんでした。私一人では何も成し遂げることはでなかったでしょうし、神獄の遺志を継ぐこともできなかったでしょう」
「年齢を重ねたせいでしょうかな。私も最近、あの頃の事をよく思い出します。あの時代にくらべると今の《東京中華街》は夢か幻のようです。ふと夢から醒めたら《東京中華街》が消えて、何もない過去に戻ってしまうのではないか……そんな下らない妄想をしてしまうくらいです」
「ふふ……鋼炎さんの気持ちは私もよく分かりますよ。本当に……長いようであっという間の十四年でした」
鋼炎が小さく微笑んだせいだろうか。つられるように神獄も微笑をこぼした。しかし、次の瞬間には六華主人としての厳格な表情を取り戻す。
「でも現実は現実。《東京中華街》の繁栄は決して夢ではありません。いいえ、決して一時の幻にしてはならないのです」
「ええ、仰る通りです」
「私たちが互いを信頼し、支え合ったからこそ《レッド=ドラゴン》は《監獄都市》で大きな権勢を振るうまでになったのです。私の役目は、私たちの代で築いたものを次の世代へ手渡していくことです。そのためにも……一刻もはやく次の六華主人を決めなければ」
「神獄さま……」
鋼炎は悲痛なまなざしを神獄へと向ける。神獄の見せる覚悟の強さは、最期の時が近いことの裏返しだと悟っているからだろう。しかし、彼も黄家の当主としての顔を取り戻して応える。
「分かりました。こちらで用意を進めましょう。すべてはこの鋼炎にお任せください」
「どうかよろしくお願いしますね。……私はもう少し休みます」
「それでは三十分後にホテルを出立しましょう。車の手配をしてきます」
鋼炎はそう言うと立ち上がって部屋を後にする。神獄がゆっくり休めるようにと気を利かせてくれたのだろう。広々とした一般客室には神獄ただひとりが残される。
自分はもう長くないと、この数年で嫌というほど思い知らされてきた。だが心残りはない。常に紅神獄としてやるべきことを考え、実行に移してきたからだ。
本物の神獄ならどうするか。神獄としてどう行動すべきか。それが自分のすべてだった。この街の繁栄を見れば、その判断は何ひとつ間違っていなかったのだと確信できる。
ただ最近、ひとつだけ頭をよぎることがある。それは自分が腹を痛めて生んだ子供、火澄のことだ。
できることなら最後に一度だけでも火澄に会いたい。会って、あなたを生んで良かったとこの手で抱きしめてやりたい。
けれど、それは叶わぬ夢であり、許されぬことだと分かっている。自分は火澄を捨てたのだ。そして式部真澄としての人生も捨て去った。それを今さら取り戻そうなど虫の良すぎる話だ。
火澄の存在は鋼炎にも知らせていない。このまま墓の中まで秘密を持って行くのが彼女のためだろう。
紅神獄の正体が実は式部真澄という日本人だということは、鋼炎以外の人間には極力、知られないよう隠し通してきた。それなのに娘に自分の素性を明かすなど、もってのほかだ。
しかし、理性では分かっていても感情は暴れ馬のように反発する。子どもに会えないことが、これほどまでに辛く苦しいことだなんて。火矛威に火澄を預けた時には思いもしなかった。
――これほどまで我が子に会いたくなる時が来るなんて。
ベッドの上に横になった神獄は視線を窓の外へと向ける。いつの間にか外は雨が降っていたらしく、一般客室の窓にはたくさんの雫が滴っていた。
それを見つめる神獄の頬にも、同じように一筋の涙が滴るのだった。
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