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第2話 黒蛇水の野望
紅龍グラウンドホテルで紅神獄の生誕祭が行われたその翌日。《東京中華街》の北端に位置する黒家邸では、当主である黒蛇水がテラスで優雅に中国茶と中国菓子を楽しんでいた。
伝統的な中国様式に則って建てられた邸宅は、真北にそびえる《関東大外殻》のせいで少々日当たりが悪いものの、非常に贅沢な造りとなっている。テラスも然りだ。
周囲をぐるりと囲む凝った欄干に美しい石畳。空間の中央を占めるのは、椅子とテーブルがセットになったアンティークの中国家具だ。瓦屋根を有した重厚な東屋が、その上を包むように覆いかぶさっており、まるで洒落た隠れ家のような様相を呈している。
おまけに今の蛇水にとって、中国茶や中国菓子はたいへん珍しい外国の味も同然だ。どちらも蛇水――いや、その中に巣食う別人格にとって初めて口にするものだったからである。
テラスで優雅に過ごす老人の外見こそ黒蛇水だが、その肉体に宿っている精神は違う。蛇水の意識はすでに死んでいた。
かわりに蛇水の意識を支配しているのは、オリヴィエの別人格である悪魔だ。
悪魔は自分の体―――オリヴィエの肉体を取り戻すために、この《監獄都市》へとやってきた。ところが東雲探偵事務所の《死刑執行人》に返り討ちにされてしまい、撤退を余儀なくされたのだ。
不幸中の幸いは《スティグマ》を使い、《レッド=ドラゴン》の権力者の一人である黒蛇水の体を乗っ取ることに成功したことだ。おかげで悪魔は反撃の手立てを手に入れることができた。
まだ肉体を取り戻すチャンスは残されている。そう考えると上機嫌にもなろうというものだ。
「ふむ……中国茶もなかなかのものだな。湯のみがやたらと小さいのには違和感があるが……味と香りは悪くない。こっちの菓子は月餅というやつか? 本物ははじめて見たな。……うむ、これも悪くない」
などと蛇水が優雅なひと時を堪能していると、そこへ黒彩水が慌てて駆けこんできた。
黒彩水は蛇水とは血の繋がりがない、いわゆる養子だ。とはいっても、まったく繋がりが無いわけではない。黒彩水はもともと紫家の出自だが、紫家と黒家は《レッド=ドラゴン》ができるはるか以前から深い繋がりがあった。
実際、蛇水の妹が紫家に嫁いだ過去もあり、両家はそうして血の結束を固めてきたのだ。
もっとも、悪魔はそういったアジア的な価値観には懐疑的だ。血の繋がりがあろうと無かろうと、自分以外はすべて他人だ。それが個人主義を信奉する悪魔の故郷では当り前だったからだ。
しかし黒彩水という男は、それなりに狡猾で頭も切れる。悪魔にとっては利用しがいのある貴重な駒だ。
だから彩水が血相を変えて怒鳴りこんできても気分を害することなく、努めて穏やかに対応してやった。
「父上! ここで何をしておられるのですか!?」
「見ればわかるだろう。ティータイムを楽しんでおるのだ」
「し……しかし、父上は重篤のはず……起き上がってもよろしいのですか!?」
「今日は気分が良いのだ。いつも寝所に籠っていたのでは、良くなるものも良くならんだろう?」
「それはそうですが……」
「しかし、少し見ない間に我が家はずいぶんと荒れ果てたな。お前にも苦労をかけた。これからは早急に傾いた黒家を立て直していかねばならん」
「父上……?」
彩水は何かの聞き間違いかと、驚愕のあまり目を見開いている。死が間近と思われていた蛇水が突然、元気になったあげく、これまでさんざん疎んじてきた息子を労ったのだから無理もあるまい。
この男が動揺を表に出すことは珍しく、彩水は蛇水の中身が入れ替わったことにまったく気づいていないのだろう。
せいぜい俺の手足となって働くがいい―――悪魔は内心でそう、ほくそ笑む。
「どうした、儂の顔に何かついているか?」
わざとらしく問うと、彩水ははっと正気に戻ったように目を伏せた。
「いえ……それより昨日、紅龍グラウンドホテルで紅神獄の生誕を祝う会が催されたようです。その……我々黒家の者は本当に参加しなくて良かったのですか?」
「彩水よ、紅家と黄家は我が黒家を貶め、没落させた張本人なのだぞ。連中は我々が真っ先に滅ぼさなければならない敵なのだ。それをわざわざ祝ってどうする?」
「しかし……そうは言われましても、紅神獄が次期六華主人を選ぶのは事実なのです。六華主人となるためには彼女に認められなければなりません。それが《東京中華街》のルールだからです。今この時期に紅神獄の反感を買うのは、得策ではないように思うのですが」
確かに彩水の言うことも一理ある。たとえば六華主人選考レースが何かのスポーツで、その試合に勝とうとするならルール順守は必須だ。
しかし、残念ながら権力争いとスポーツは違う。誰かの作ったルールに従っているだけでは、望むものは永遠に手に入らないのだ。
蛇水は諭すような口調で告げる。
「良いか、彩水。王座とは自らの力で掴み取るものだ。誰かに与えられるものではない。人から与えられたものは、容易く人に奪われるものと心得よ」
「……!」
「お前は優秀だが、権力に気兼ねしすぎるきらいがある。真の王になりたいのであれば、そのへりくだった考えは改めよ」
「しかし……!」
なおも口を開きかける彩水を、蛇水はぎろりと睨む。その眼光の鋭さに、彩水は思わずといった様子で口をつぐむ。蛇水は内心でそれに満足しつつ、言葉を続けた。
「安心せよ。この蛇水が必ず連中の手から《レッド=ドラゴン》を取り戻す。そして今度こそ我々の時代を築くのだ」
「お言葉ですが、父上。それでは我々と紅家・黄家連合との全面戦争になってしまいます。そうなれば黒家に勝ち目はありません。両者の間には、それほどの戦力差があるのです」
それを聞いた蛇水はうっすらと笑う。
「当主である儂が戻って来たのだ。戦力差などどうにでもなる。資金力や人員の数もいかようにも回復させる方法はある」
「失礼ながら少々、楽観論に過ぎるのでは?」
「良いか、彩水。重要なのは正当性だ。人間は金や権力だけで動くものではない。信じられる正義があるかどうか――それが不特定多数の支持を得るには決して欠かせぬのだ。……我々には正義がある。《レッド=ドラゴン》の創始者である我々ならば、歪められた組織をあるべき姿に戻すことができる。そして黄家や紅家は信じるに値しない連中だと《東京中華街》全体に知らしめるのだ。さすればコインの裏表がひっくり返るかの如く、形勢は逆転するだろう」
「そうでしょうか? 仮に我々黒家の正当性を証明できたとして……そう上手く事が運ぶとは思えません。それどころか下手をすると《レッド=ドラゴン》が分裂し、内部抗争に発展する恐れも……」
「それがどうした? 血が流れるのは悪いことではない。むしろ願ったり叶ったりだ。『生贄』が多いほど権力は強固になるのだからな。その頂点に我々が君臨できるならば、いくら血が流れようと知ったことではない……そうは思わんか?」
そもそも悪魔にとって《監獄都市》や《東京中華街》、《新八洲特区》、《中立地帯》―――異国の街になど特別な思い入れはない。
当然、それぞれの勢力の抗争や確執にも興味がなく、己の肉体を取り戻すという目的さえ叶えられるなら、他はどうだっていいくらいだ。
中国人や日本人の区別もなければ、どの組織で何人死のうと知ったことではない。悪魔はただ目的を果たすために、利用できそうなものを利用し尽くすだけだ。その思考を反映してか、蛇水の瞳は冷酷な光を放つ。
彩水はかすかに眉根を寄せるものの、すぐにそれを隠すようにして頭を下げる。
「……どうか体をお冷やしになりませんよう。私は失礼します」
その場から逃げ出すかのように足早に屋敷へと戻っていく彩水を、蛇水は「にい」と笑って見送った。
(まだまだ甘いな、黒彩水よ。お前は暗殺者のくせに身内への情が深すぎる。おそらく、そう育てられたのだろうが……その弱みを捨てなければ、望むものは永遠に手に入らんぞ)
蛇水はさらに思考を巡らせる。
(この《監獄都市》は《レッド=ドラゴン》と《アラハバキ》、そして《収容区管理庁》が対立しているが、どれも決して一枚岩ではない。綻びはありとあらゆる場所にある。さて……どの綻びを突くのが一番、効果的だろうな?)
蛇水は人差し指でコツコツとテーブルを叩いた。方法は無数にあるが、できるなら極力、資金と人手がかからない方法が望ましい。彩水が言った通り、黒家がその二点が劣っているのは事実だからだ。
だとすると、やはり紅神獄にまつわるスキャンダルを利用するのが一番の妙手だろう。問題はそれをどのように生かすかだ。
(……いずれにせよ、黒家の利にならなければ、わざわざ黒蛇水の体に潜り込んだ意味がない。そして最終的には《東京中華街》を手中に収め、今度こそ『俺』の体を取り戻すのだ!)
しかし、悪魔は《監獄都市》の事情に詳しくない。ある程度、蛇水が脳内に残した記憶があるとはいえ、それも完全ではない。何故なら蛇水はここ数年、病床に伏せっていたため《監獄都市》の時事に明るくないのだ。
十分な情報もない段階で下手に動くと、すべてが台無しになりかねない。
(……まあ当面は様子を見るのが賢明か)
そして小さな湯のみを口に運びながら酷薄に笑うのだった。
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