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一年前の自分の言葉が、棘のように刺さって抜けない。あのときの私の返事が違うものだったなら、今頃どうなっていたんだろう。
「好きな人がいるの」
そう答えた私に、松田は少し悲しそうな顔をして、それでも微笑んでみせた。
「そっか」
そのまま去っていく後ろ姿を、本当は呼び止めたかった。
好きな人はあなたです、と。
「卒業式の日に、松田に告白する」
カナがそう言ったのは、公立高校の結果発表があった日だった。お互い志望校に受かり、行ってみたかったカフェに繰り出した。もう高校生になるんだから、カフェデビューしてもいいよね、なんて言って、普段より気取った飲物を頼んだときだ。
「え、カナって松田が好きだったの?」
「うん、なんかイイよね。体育祭のリレー、カッコ良かった」
陸上部の松田が、最後尾から一気にごぼう抜きした姿は、確かに素敵だった。
「ヨリは? 誰か好きな人、いないの?」
「うん。高校に期待」
返事しながら、胸がざわついた。カナは可愛い。松田はきっと、カナに告白されたらオーケーするだろう。だから私の気持ちなんて口に出したら、カナが嫌な気分になるだけ。
ずっと松田が好きだった。ソフトボール部の横で、陸上部が走る。その姿を目で追って、それだけで良かった。部活終わりのグラウンド整備で、体育倉庫からトンボを出す短い時間、近くにいるだけでドキドキした。廊下ですれ違うだけで、次の授業中に姿を思い描けた。
言葉にしたら消えてしまいそうで、誰にもこの気持ちを打ち明けたことはない。三年生になって一番仲良しのカナにだって、言わなかった。まして本人に伝えることなんて、できない。告白して拒否されるくらいなら、一生このままでいい。
受験が終ってやっと卒業を実感してから、気がついた。
もう、顔を見ることもできなくなるんだ。廊下で友達とふざける姿も、教室の窓越しに見える横顔も、終わりなんだ。
だけど私には、何もできない。このまま卒業していって、駅で会うことを期待するくらいしか。そう考えると、泣きそうになった。
卒業式の前の日に、昇降口で呼ばれた。
「三森、ちょっと美術室に来てって」
二年生のときに同じクラスだった男子だった。
「誰が?」
「いいから行って」
そういい捨てて、さっさと靴を履いて帰っていく。先生から忘れ物でも渡されるのかと、美術室に入っていくと、松田がポツンと座っていた。
「勝手に呼んで、ごめん」
松田の顔は真っ赤だった。私もきっと真っ赤だ。心臓が長距離走あとよりもドキドキして、呼吸が浅くなる。
「一年のとき、同じクラスだったよね」
「うん、喋るのが二年ぶりくらい」
私の声はぎこちなかったと思う。
「ずっと三森が好きだったんだ。今、つきあってるヤツいるの?」
そのとき、カナの顔が浮かばなければ良かったのに。可愛いカナ。高校は別々だけど、ずっと友達でいようねって約束したカナ。明日、松田に告白する予定のカナ。
言い出せなかった私より、口に出そうとしているカナのほうが、百倍勇気がある。その勇気は、報われるべきものだ。
「好きな人がいるの」
下を向いたまま、私は答えた。
長い春休み中に、何度もカナと会った。
「昨日ね、デートしたんだ。初デート」
主語のない話が却って悲しくて、どこに行ったとか何をしたのかとか、上の空で聞いていた。そうか、やっぱり松田はカナとつきあうことにしたのか。
本当は少し期待していたんだ、私を好きだからつきあえないって、断ってくれるの。だけど高校生になるんだから、やっぱり誰かと彼氏彼女の間柄になりたくて、卒業前後にまとまったカップルをいくつか知ってる。松田とカナも、その中の一組だったってこと。
家に帰ってから、少し泣いた。こんな気持ちをカナに悟られちゃいけない。だって私たちは、ずっと長い友達になるんだから。
高校生の新生活は忙しい。入学式直後には毎日のように会っていたカナとは、いつの間にか連絡が間遠になっていった。新しい生活に慣れることに精一杯で、それが寂しいと思う余裕もなく、夏休みに一緒にテーマパークに出かけたくらいで、私たちの友情は薄くなっていく。
松田とは、どうなってる? 言い出したくても言えない言葉が、ずっと舌の根にある。カナは相変わらず可愛くて、高校に入ってからはずいぶんもてているみたい。中学生のときにはできなかったアイメイクや、アルバイトで買った洋服が、とても似合う。
クリスマスの日に部活で遅くなった私は、駅でカナに会った。ちょっと頑張ったオシャレをして、これからデートだってよくわかる。
久しぶりーと抱きついてくるカナとハグして、少しの間近況を伝えあった。
「松田と待ちあわせ?」
こんなに長い期間つきあっているのなら、ふたりはとても気が合うのだろう。もう私なんか、入る隙間はない。
「松田?」
カナはキョトンとした顔をした。
「松田って、陸上部だった松田? つきあったこと、ないよ」
「だって、卒業式の後に告白するって。春休みに初デートって」
私はすごい顔をしていたんだろう。カナが慌てて、隅っこに私を引っ張っていった。
「言ったじゃん。松田を呼び出そうとする前に、田辺に呼ばれて告白されたって。で、田辺とつきあうことにしたって」
「聞いてないよ!」
「ヨリ、良かったねって言ったじゃん」
あの日卒業式が終わってから、いつもの公園でカナと待ち合わせてた。風が強い日で、滑り台の下に座って話をした。私はまだ松田のことで頭がいっぱいで、カナがつきあうことにしたって言ってるのがショックで、話をきちんと聞いていなかったかも知れない。
「そんなのって、ないよ……」
口を覆ったら、涙がこぼれそうになった。そんなに簡単に恋の相手を決めるなら、松田の名前なんて出して欲しくなかった。そうすれば私はあの日に、松田に違う返事ができたのに。
「やだ、ヨリ、どうしたの? ごめん、時間がないから明日にでも電話するね。またね!」
走っていくカナを見送って、涙をこらえて帰った。
私、まだ松田が好き。卒業してから一回も顔を見ていないのに、ずっと好きな気持ちが消えない。
今まで抑えていた感情が、一気に押し寄せてきた。松田の顔が見たい。また走っている姿が見たい。
あのとき、ちゃんと自分の気持ちを言えば良かった。私も好きだったって、カナにも言っておけば良かった。堂々と恋敵だと名乗れば、松田からの申し出を受けられたのに。
冬休みに、卒業する前に背伸びして入ったカフェで、カナと待ち合わせた。まだ一年も経っていないのに、私たちはそんな場所に入るのが普通になっていて、中学生と高校生の違いを改めて感じる。
「この前変だったのって、もしかして田辺が好きだったの?」
「そんなわけないじゃん。田辺なんて、話したこともないよ」
じゃあどうして、と私を覗き込むカナは、ずいぶん大人びた表情をしている。一年足らずの間に、私よりたくさんのことを経験したんだろう。
もう中学生じゃない。バラバラになった私たちは、横並びの価値観なんて持っていないのだ。
「松田が好きだったの。中学校のとき」
今まで口に出したことのない言葉が、口からこぼれ出た。
松田に好きだって言われたこと。だけどカナが告白するって言ってたから、断ったこと。今でも松田が好きなこと。
テーブルの上で顔を隠したまま、私はカナに話した。カナの顔を見るのが、怖かった。
「何? 私のために身を引いた気でいたの? 嬉しくないよ、そんなの」
予想通りの答えが、不機嫌な声で返ってきた。
「そのとき松田とくっついて、こういうことだからごめんねーって言われれば、私だって良かったねって言えたのに」
多分逆の立場なら、私もカナと同じことを言った。
口直しにカラオケに行って、ふたりでラブソングを歌いまくった。やっぱり一番気が合うね、これからもっと頻繁に遊ぼうねって約束して、カナと別れた。
私の失恋は、カナのせいじゃない。勝手に他人の心を忖度した私が悪い。そんなことはわかっているのに、私の心はまだカナを悪者にしたがっていて、そんな自分に腹が立つ。
本当は傷つきたくなかっただけでしょ? カナが松田を好きなら、私と松田がつきあったりしたら、裏切り者って非難されると思ってたんでしょ。自分ならそう思うって、勝手にカナの器まで小さく見積もって。
私、自分が思ってたより、ずっと嫌な子だ。
それから先、私とカナはまた連絡をとりあって会うことが増えた。思えば、私は無意識にカナを避けていたのかも知れない。ときどきは田辺も一緒にお茶を飲んだりした。
そんなとき中一のころの担任の先生が、今年で定年退職なさることを知った。情報をもたらしたのが、その先生に三年の担任してもらった田辺だったのは、出来すぎな気がする。
「修了式の日に、有志で花持っていこうって」
「有志なら、私も混ぜて。先生に会いたい」
そうやって、私は一年ぶりに母校の門をくぐった。
バラバラの制服を着た私たちは、生徒用の昇降口ではなく正面玄関の受付で記名して学校に入る。何人もが玄関ホールに溜まり、幹事に頭割りの花代を渡した。
「あと、誰?」
「……と……と、松田」
松田って声だけ、やけに大きく聞こえた。そんなに多くない参加者の中に、松田がいると思っていなかった。咄嗟に玄関を振り返ったら、ちょうど入ってきたばかりの松田が靴を脱いでいた。
見慣れない色のネクタイに、エンブレムのあるブレザー。初めて見る高校生の松田は、記憶よりも大人っぽい顔になっている。
どうしよう。勝手に目が追ってしまう。みんな先生に挨拶をしてるのに、私だけが最後尾から松田の後ろ姿を見てる。
挨拶が終って校舎から出ても、みんな帰ろうとはせず、校門の前で固まっていた。その固まりの中で、松田がふいに近づいてきた。
「なんか懐かしいな、走らせてくれないかな」
グラウンドに目を向けて、松田が言う。
「隣でソフト部が練習しててさ、たまに防球ネット抜けて玉が飛んでくんの。投げ返すと三森が、すみませーんって頭下げてさ」
「何それ、私がノーコンみたいじゃない」
「じゃなくって、嬉しかったの。また三森の玉、飛んで来ないかなぁって思ってた」
ああ、顔が熱い。今なら言えそうな気がするのに、まわりにこんなに人がいるなんて。
「さっさと解散しろって、怒られたー」
誰かが先生に注意されたらしく、私たちはノロノロと中学校を離れはじめた。公園でお喋りすると言う人、ファミレスに場所を移そうと言っている人、さっさと帰途につく人。それぞれの中で、私はどのグループにも入らず、松田もまたそうだった。後ろの方をノロノロと歩き、捌けていく人たちを見送った。
「友達と一緒に行かなくて良かったの?」
「三森はどうするの?」
質問に質問で返されて、答えられなかった。
「俺はさ、三森が行くとこについて行こうと思ってたから」
ドキンと胸が鳴る。
「去年断られたのに、しつこいだろ?」
松田はあさっての方向を見ていた。
「私もしつこいかも。もう片思いが三年以上になる」
さあ、勇気を出して! 自分を鼓舞する声が聞こえる。
「そっか」
去年と同じ返事をした松田は、まだ横を向いたまま隣を歩いている。このままじゃ、今年も同じことになる。大きな鼓動で、心臓ごと身体まで跳ねそう。
「去年叶いそうになったのに、間違えちゃったんだ、私」
「間違えたって、何を?」
「返事。卒業式の前の日の、美術室で」
こんな回りくどい告白、自分でもイライラする。はっきり言わなくちゃと気ばかり焦って、目の前の電柱に思いっきり身体をぶつけた。
「痛ーいっ!」
衝撃で座り込む私の横で、松田が笑い出した。
「俺、三森のそういうとこ好き。すっごくおとなしく見えるのに、やってることが結構ポンコツ」
「何それ、褒めてない」
「そんだけ見てたって言ってんの。ここ一年、駅とか電車の中とかでキョロキョロしてさ、家の方までランニングしたこともある。ストーカーかって」
ぶつけた手をさすりながら、私は立ち上がる。赤くなってるけど怪我はしていないみたい、と手をグーパーした。その手を見たままなら、今の調子で言える。今だ、私。
「去年好きな人がいるって言ったの、松田のことだった」
「うん。今の話の流れで違ったら、泣けるわ俺」
「え、そう? 松田、エスパー?」
「やっぱりポンコツ」
目が合ったらおかしくなって、一緒にゲラゲラ笑いながら歩いた。
通りかかった他人の家から、白い花びらがヒラヒラ舞ってきた。
「あ、桜。満開だよね、今」
「卒業式には咲いてなかったのにな」
「そうだったね。まだ蕾だった」
去年の桜が蕾のまま月日を飛び越して、恋の始まりを祝福してくれているみたい。開花まで時間のかかった花は、やっぱり長い間咲き誇ってくれるだろうか?
寝惚けた月が輝き出した夕暮れに、私と松田は握手して別れた。
これから、よろしくねって。
fin.
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