1 航

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1 航

いつかは(なぎ)と結ばれるのだと、そう思っていた。 保育園からの幼なじみ。それから小、中、高とずっと同じ。さすがに漫画のように、家が隣だとか、毎日一緒に帰ったりだとかはないし、それぞれ同性の友人と遊んでいる時間のほうがずっと多いし、そもそも、いわゆる「いい雰囲気」になったこともないし、自分が凪に向けている気持ちが恋愛感情だという認識すら、なかった。 どちらかと言うと、別の家に住んでいるだけの双子の妹、という感覚が近い。距離が近いのは当たり前で、相手のことは言葉を交わさなくてもだいたいわかる。 「しれっとなに人のこと妹だとか言ってんのよ、(こう)。それだったらあんたが弟でしょ、出来の悪い、ね」 あいつだったら、きっとそう言うだろうことも。 そりゃ、初めて眼鏡をかけてきたときとか、セーラー服の下で体つきがだんだん大人になっていくのが見てとれた時期とかは、正直言って、けっこうドキドキした。 「なに見てんのよ。そーゆーの、バレるよ。気を付けたほうがいいんじゃない」 ずけずけと口にしてくる凪は、大人しそうな見た目に反して遠慮がないし気も強い。馬ッ鹿そんなんじゃねーよ、自意識過剰なんじゃねえのと返すと、奴はニヤッと笑う。いつもの煽り合いの範疇に収まって、若干どぎまぎした感覚は収束する。そしてこれはやっぱり、妹の成長を目の当たりにしているというか、身内ゆえのむず痒さ、みたいな感覚のほうが勝っているよなと思い直すのだった。 それでも、いや、それゆえ、なのか。このままずっと一緒にいる関係は変わらないと考えていたし、凪以外の女の子とどうこうなるつもりもなかった。 今すぐにどうこうなることはないかもしれないけれど、いつかは凪と結ばれるのだと、根拠と言うにはあまりにふわっとした、しかし何やら確信めいたものがずっとあった。 なんなら、凪のほうだってそう考えているんだろうとさえ、思っていた。 お互いに、「まだ付き合う相手はいないのか」と気安く尋ね合いつつ、それ以上は踏み込まない。「じゃあ自分と」にはならないけれど、「さっさと恋人作りなよ」とも言わない。そんな関係が心地よかったし、当たり前だったし、このまま変わる気もしないような気がしていた。 多少の変化があったのは、高校に入ってしばらくしてからだ。 「お前、東京の大学に行くの?」 「そうだよ。なにを今さら驚いてんの」 凪は、上京して行きたい大学があるんだと、さらっと言った。 冷静に考えれば、当然のことだ。やりたいことがあるって話は中学の頃から聞いていたし、その進路について相談に乗ったことだってあった。確かに、ショックを受けるほうがおかしいくらいではあった。 でも、それまではごく自然に近い位置にいた凪が、いつでも声をかけられる、手の届く距離にいなくなるかもしれないということを、ここにきて初めて、明確に意識した。楽観的過ぎると言われれば、そうだった。 ただ、それでも、じゃあ今までの関係性を更新しよう、しなくては、したほうがいい、そんなふうに気持ちが向くかというと、そんなこともなかった。 現実に、二人の行く手に岐路が待ち受けていることが示されてもなお、どこかで凪とはこれからもずっと一緒だ、別々の大学に行ったって今の関係はそうそう変わらないだろうと、そんな根も葉もない楽観的な見込みもまた、心の中に依然として残っていたのだった。  ★ そんな、それまでの十六年の人生のうち十五年間に及ぶ強固な繋がりに基づいた強固な思い込みが、徐々に崩れていくことになったのは、ひとえに、出会ってすぐの汐香(しおか)の存在だった。 「一年のクラスの友達、みんな文系でさ。あのとき入れてくれて、ほんと助かったよ」 二年に進級したばかりの新しい教室で、同じクラスになったのが通算何度目なのかをカウントしていた俺と凪のところに声をかけてきて、そのまま、すっと馴染んだ。 「なんかさ、凪や航と一緒にいるとさ、楽なんだよね。なんでかな? 二人がすっごく自然体でいるからかなあ、わかんないけどさ」 小柄で、かなり短めのショートカットが印象的な汐香は、いつだか何かの拍子に、ううんと伸びをしながらそんなことを言った。 高校二年生、それまで俺と凪の二人でいた場面は、ことごとく、汐香を加えた三人で塗り替えられた。 むしろ、そんな時間はぐっと増えた。お互いの同性の友人関係の隙間に、だいたい決まった場所でただダベるだけだった二人は、汐香に引っ張られて、新しい店だとか、二人では行ったことのなかったカラオケだとかに、足を運ぶようになった。 汐香は、大人びていて皮肉屋の凪とははっきり異なるタイプで、よくころころと表情が変わり、口に手を当ててあっはっはと陽気に笑うのが印象に残る、人当たりの良い性格だった。 それまで女子と言えば仲が良いのは凪だけだった俺は、知らず知らずのうちに、汐香の見ていて飽きない百面相を眺めるのが楽しみになっていた。 だから、三人で過ごすことが当たり前になって半年後、秋の終わりごろに汐香から告白されたとき、自分でも驚くほどすっと受け入れられたのは、思い返せばそうやって惹かれていた積み重ねがあったからなんだと思う。 もちろん、凪のことを考えないわけには行かなかった。 それは、汐香のほうも、当然そうだろうと予測していたようだった。 「凪のほうが好きならさ。あたし、諦めるし、応援するよ。でも、そうだったとしても、あたしはちゃんと気持ちを伝えたかったんだ」 放課後、夕暮れの迫る教室でまっすぐそう伝えてくれた汐香は、凛として見えた。平均よりだいぶ小さな身体が、自分よりも大きく感じた。 「凪とは話したよ。凪が航のことをどう思っているかは、あたしからは言わない。もし二人で話したいなら、あたしへの返事は、その後でいいよ」 少し、迷った。 でも、結果として、汐香に返事する前に凪のところに行くことはなかった。 凪は、汐香が俺に告白するのを、止めなかった。 たぶんそれがすべてだと、そう思ったから。 自分だって、いつかは、いつかはと考えはしながら、その先に何か特別な日々が待っているように思い込みながら、結局、これまで一歩もその方向に距離を縮めてはきていなかった。 極めて近いのに、どこまでも交差せず、ひたすらまっすぐな二本の並行線。 それが、俺と凪だった。 そういうことだ。 「あたし、不安だったの」 返答を告げた後、汐香は、小刻みに震え出した。 「余計なことしちゃったんじゃないか、って。航と凪との間に、ずかずか割り込んで行って、ちょうど良かった関係を踏み荒らしちゃったんじゃないか、って、さ」 ぽたぽたと、汐香の足元に、冷たい染みができる。 おいおい、困るな。せっかく、オーケーの返事をしたのにさ。 「なにも、問題ないよ。泣くことなんてない」 俺は、瞳を真っ赤にした汐香に近づいて、そうささやく。 女の子の扱いに慣れていないことがバレバレなのは、自分でよくわかる。とはいえ、どうすれば、なんて言えば正解なのかなんて、すぐわかるはずがない。ただ、まっすぐに告白してくれた汐香に、ここまでに相当な葛藤があったんだろう彼女に、最大限の敬意と感謝をしなければならないことは、よくわかっていたつもりだ。 ありがとう、汐香。 俺たちの曖昧な関係に、風穴を開けてくれて。 俺を、新しい世界へ、連れ出してくれて。引っ張り出してくれて。 そして、好きになってくれて。
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