1人が本棚に入れています
本棚に追加
3 凪
いつか航は私から離れていく。
そう思っていた。
気を遣うことなく、何でも言い合える、友達の定義ど真ん中の友達。そこに、同性も異性もない。二人は正しく親友だったし、それ以上でも以下でもなかった。少なくとも私は、小学校に入るより昔から、そう思っている。いや、それは言い過ぎかな。気持ちとしては、それくらいだけれど。
もともと私は、女の子同士でつるむのが苦手だった。べったりしたグループ作りが好きでなくて、一人でいたり、男子といたりすることも多かった。ただ年齢が上がるにつれ、男子といるのも何かと言われたりして面倒になってきたので、自然と話すのは航とくらいになっていった。
航は航で、男友達とはまた別種のカテゴリーというか、独立したポジションだった。
だから、同性とか異性とか、そういう区別とも別だった。
だから、恋愛対象かどうかという括りからさえ、外れた存在だった。
仲をからかわれたことがある。あれは小学校四年生の一学期だった。
「いつもアツいよねー、そこの二人はさあ」
何を言われているのか理解ができなかったが、悪意を向けられていることはわかったから、余計に私は混乱し、とっさに何も言えなかった。
「アツくないって。普通だよ、普通」
隣で、まったく平静に、航は言ってのけた。
何にも考えてなかったのか、何でもない風を装ったのか。
ただ、航は、場を壊さずにそういうことがさらっと言える奴だった。
普通。
思えば、この瞬間に、私と航の関係性に対する周囲の見方が固まったように思う。また、航に対する私のスタンスも確定したように思う。
ああ、「普通」でいいんだ、私たちは。
あの日あの時のあの言葉があったから、私はその後、思春期を経てより男女の意識が自分にも周りにも浸透していく過程で、変わらず、「普通」でいられた。疑問を持たずにいられた。この関係は何か男女的な、恋愛的な、特別な間柄なんじゃないか、なんていう幻想を、持たずにいられた。
日に日に、体つきが自分と変わっていく航を間近で見ていても。
声変わりをして、筋肉も付いて、たくましく男らしくなっていっても。
私のほうだって刻々と成長していく中で、ときに航のほうが戸惑いを見せても。
あのときの航の言葉のように、「普通」でいられた。
「なに見てんのよ。そーゆーの、バレるよ。気を付けたほうがいいんじゃない」
そう、航と私は、普通の友達。
それ以上でも、以下でもない。
日がなどうでもいい話や馬鹿な話をしたり、悩みがあるときは力になったり、時には喧嘩をして、なんとなく仲直りしたり。
そのうち、恋愛の相談なんかにも乗ったりして。
何回か失敗もするだろうけれど、そのうちに成功したりなんかして。
けっこう距離が遠ざかったりなんかして。
「いちゃついてばっかいるんじゃねーよ」なんて小突いてみたりして。
きっとそういう風になればいいんだと、すればいいんだと、思っていた。
なかなか恋愛の相談に乗るような事態は起こらなかったけれど。
「お前、東京の大学に行くの?」
「そうだよ。なにを今さら驚いてんの」
だから、私の進路の話にやたらとショックを受けたようだった航に、こちらが少し驚かされたのだ。
「ずっと言ってたじゃん。獣医になりたいんだって。なかなか勉強できるところ、ないんだよ」
航は椅子に後ろ向きに座りながら、だいぶ間抜けな顔をしていた。
どうして、そんな意外そうな反応をするのか。まさか、ここまでずっと一緒の道を歩いてきたから、これからも離れないでいるままだとでも思っていたんだろうか。
自分としても、航と離れることになるだろうことは、本人には絶対に言わないが、あまり考えたくはないことだった。でも、将来の夢と天秤にかけて、なりたい職業を棒に振って同じ大学に進むのか、という話だ。ずっと一緒だった幼なじみとはいえ、「普通」の友達を優先するのかといったら、そんなことはないだろう。
これがもし、恋人だったら。一緒に東京に出てほしいとか、遠距離で頑張ろうとか、そういう話になるんだろうけれど。
そんなことを考えていたときだった。
「ねえねえ、みんな、知ってる同士なのかな? 誰も友達いないの、あたしだけ? みたいな」
声をかけてきたのが、汐香だった。
★
いつか航は私から離れていく。
でもそれは、裏返せば、その「いつか」が来るまでは傍にいるのが当たり前だと思っている、ということでもあった。
そして、自分からは航と離れる気がない、ということでもあった。
本格的に受験勉強を始めなければならない。
そう思いながらも、この時間を終わらせれば、高校卒業までは勉強、それからは別々の道。
汐香を含めた三人で過ごすのはとても楽しくて、つい、そっちを優先してしまっていた。
ずっと、自分からは、距離を取れないままでいた。
だから、汐香が航への気持ちを打ち明けてきたとき、心のどこかで、とても楽になったことを覚えている。
「いつかそういう時が来るだろうって、思っていたから」
そう、これでいいんだ。
汐香は随分と気にしてくれていたけれど、本当に、私は嬉しかったんだよ。
自分からピリオドを打つ決断をしなくてもよくなった、なんて、よこしまな気持ちもあって。
ありがとう、汐香。
私と航を引き離してくれて。
いつか離れる、その「いつか」になってくれて。
最初のコメントを投稿しよう!