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こうして千鶴との交際がはじまった。
仕事が終わると、千鶴は毎日のように私のアパートに遊びに来た。
私は、はじめて知る恋の幸せに、骨の髄までとろけてしまったと言っていい。
恋という言葉の定義など、私には解ろうはずもない。
ただ、男がひとりの女をいとおしいと想い、その女が、自分という人間をいとおしいと想ってくれるということが、宝石のように貴いことだと感じたのだ。
千鶴にとって、私という男は特別な存在なんだと思えることによって、私は自分に確固たる自信を持つことができた。
二人でいろいろな所に遊びに行き、真っ白だった福山市の地図は、千鶴との恋の色に染められた。
花火大会で快哉を叫び、神戸や京都に旅行に行ってはしゃぎ、職場では人目も憚らず痴話喧嘩をし……と、私の色ボケ街道はとどまるところを知らなかった。
が、禍福糾縄という四字熟語を引くまでもなく、幸せというものの陰には、すでに不幸の兆しがひそんでいるという世の真理を、私のごとき世間知らずが知ろうはずもない。
恋は盲目とは、よく言ったものである。
愛欲にまみれて、阿呆のように日々を過ごしすうちに、私はすっかり腑抜けになってしまった。
漫画家になるという夢を忘れたわけではないが、漫画を描くことへの熱量は、あきらかに減じていった。
新人賞への投稿は少しずつ続けてはいたが、愛欲の虜に堕してしまった男に、蓋世不抜の傑作作品など描けるはずもなく、むなしくボツ原稿の山を築くだけだった。
「わし、才能がないんかなぁ……」
部屋の暗がりに、私の愚痴がむなしく飲み込まれる。
ひとつ布団で、私の隣りに寝ている千鶴は、淋しそうな目で私を見ている。
「頑張ってれば、いつかは才能が開花するよ」
千鶴は優しげな笑みを浮かべ、むずかる我が子をあやすように言った。
「ステーキレストラン赤壁」でこのまま正社員になり、千鶴と結婚して幸せな家庭を築く……そんな平穏無事な人生もいいんじゃないかという想いが、ふと脳裏をよぎった。
そういう人生は、繭の中にいるような安息を私にもたらしてくれるにちがいない。
分不相応な夢さえ棄てれば、幸せな未来が約束されているような気がした。
が、そんな約束された未来をぶち壊してしまいたいと願う、もうひとりの自分がいるのも確かなのである。
得恋の幸せを知って、失恋の不幸を知らない人生など、あまりにも貧困ではないか。
幸せな日々に安住してしまうには、十九歳という年齢は若すぎた。
私の若さは、本宮ひろ志の漫画のような、波瀾万丈の冒険的な人生を欲していたのである。
私は昂然として起ち、色ボケを破砕すべく、ペンをとって原稿に向かった。
千鶴はそんな私の傍らで漫画雑誌を読んだりしている。
私の愚かさは、煩悩を去るべく、滝に打たれる修験者にはなりきれなかったことであろう。
すぐそばに、若く美しい女体が息づいていると思うと、とてもではないが、漫画の三昧境に没入することはできなかったのだ。
ペンを放り捨てて、千鶴に襲いかかってしまうこともしばしばだった。
事が果てた後、名伏しがたい自己嫌悪に苛まれ、煩悩の元凶たる千鶴という女に、罵詈雑言を浴びせることも多くなった。
千鶴も当然、私の理不尽きわまりない態度に怒り、犬も食わぬような痴話喧嘩が繰り広げられる。
坂道を転げ落ちはじめた煩悩という名の雪玉は、日増しに大きくなっていく。
巨大化したその雪玉は、いつか壁にぶち当たって粉々に砕けるだろう。
そんな予感をはらみながら平成元年は暮れてゆき、十二月に私は二十歳になった。
ガラスの十代は終わったけど、二人で幸せな二十代を過ごそうね。
千鶴からの誕生日プレゼントには、そんな手紙が添えられていた。
その簡潔な手紙に、千鶴の祈りにも似た気持ちが込められているような気がして、私は泣いた。
低俗な情痴小説のような日々だったが、私は千鶴をいとおしく想っていたし、これまでの人生で知ることのなかった幸せを感じていたのは確かなのである。
天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊し、ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長の会談で、東西冷戦の終結が宣言され、世界は大きく変わろうとしている。
むろん、そんな世界情勢とは何の関係もないが、私の千鶴への想いは揺らぎに揺らいでいた。
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