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あんな、常識も良心も通用しない相手に土下座など何も効果がないことを、あいつは知らないんだ。
土下座というものは、相手が要求し、それに屈辱的に答えるときに、初めて相手への効果を発揮する。頼まれてもいない土下座というのは、返って相手を逆撫でするのだ。今の、あの二人のように。
「……おい、平井ぃ……」
唸るように低く声を出す筋肉男。その右足が大きく後ろに振り上げられたと同時に、怒号が路地裏で響いた。
「てめぇのそういうところ、うぜーんだよ!」
思いきり蹴り上げられた鈴木の腹。体ごと吹き飛ぶが、すぐ後ろにあった壁のせいで、衝撃はすべてやつの体に吸収された。
声になり損ねた鈴木の悲鳴が、ビルとビルの間に響く。
「いいから、とっとと稼いでこいよ! お前お得意の口八丁でいいカモいくらでも捕まえてさあ!」
「ぐっ……うっ…………」
鈴木は身を守るように縮こまり、暴力が最小限になるように受け止めていた。長髪男は今度は止めるでもなく、当たり前のように煙草をふかし始めた。そんな光景を、建物の陰から俺はただ、見ている。
──何なんだ、これは。
しかし同時に、ふっと何か糸が切れた。
あっさりと突然に唐突に当然に、俺の鈴木への苛立ちと怒りと執着は、消え失せる。
あいつはもう──どうでもいい。
鈴木でも平井でも、スズキでもヒラメでも──どうでもいいよ。関係ねーよ。
俺の興味はふいと無くなり、その路地裏を後にした。
背後ではしばらく殴りつけられている悲鳴と嗚咽が響いていたが、遠くなるにつれてそれも小さく消えていく。
正直──せいせいしたと思った。
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