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人間の一番古い記憶というものは、何歳くらいからあるものなのだろうか。きっと、人それぞれだろう。
俺の場合、一番幼い記憶は三歳の頃のものだった。そしてそれに伴ってくる感覚というものは、冷たく暗く、陰鬱なものだ。
身にまとわりつく水が、重くて黒かったことを覚えている。
それは鼻から口から、容赦なく幼い俺の体内へと入り込んで苦しめた。海で溺れたことが、俺の一番幼い記憶──そして。
掴まれた手首。引き上げられた時の安堵感。波間に消えていった母親の姿。それは忘れたくても忘れられない、俺の記憶となる。
母親は、溺れる俺を助けるために死んだ。
それが俺の一番幼い記憶、そして、罪となった。
「お前は、あいつによく似ているな」
妻を子どもに奪われた父親は、口数も少ないわりに、よくその言葉を吐いた。口数が少ないからこそ、発せられる言葉はいちいち俺の記憶に留められる。
覚えてもいない母親に似ていると言われても、どう反応していいのかわからず、幼かった俺は曖昧に笑うことしかできずにいた。似ていると発せられた声音には、懐かしさや憂いが含まれていないと、うすうす感じ取っていたからかもしれない。
その言葉とともに向けられている目の闇は深く「どうしてお前がここにいるんだ」と、暗然たる眼差しが、俺を突き刺しているようだった。
俺は母親似なのだろうか、と確認したかったが、それもできなかった。母親の写真は、父親がすべて処分してしまったからだ。
現像したものを捨て、データ削除さえすれば跡形もなくなる母親の姿。一枚だけ処分から逃れた写真は、本棚の裏側に落ちていた。
若い頃の父親と母親の、どこかのキャンプ場でバーベキューをしている二人の姿がそこにあった。けれど、その母親の顔にちょうど誰かのものともわからぬピースサインが前方に被せられていて、指と指の隙間から彼女の目元しか見えなかった。
似ているのかなんてわからずも、その写真を俺は自分の机にしまった。
そうして父親は、一人で俺を育てた。いや、育てたという言い方は語弊かもしれない。死なないように、生かしておいてくれた。食事や衣類の用意はしてくれたけれど、まるで俺がそこにいないかのように、家の中ではふるまった。
話しかけても応えられない背中。
学校での連絡事項も、紙を机の上に置いて終わりだった。
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