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「お客さんを乗せる前にさばいたばかりだから、そこまで臭くないでしょう? ああ、あと消臭剤のおかげもあるのかなぁ。最近のは、よく効きますよね」
やけに喋るおっさんだ。そんな事情、俺には関係ない。
ただこうして──刃先を向けられている現状は、さすがに関係ないのだとは言い切れなかったけれど。
「おっさん、殺人鬼?」
「いえ、まだ」
まだって何だよ、まだって。
何をどうして、殺人鬼になろうっていうのかよ。
そんなのは明白だ。俺だ。俺を今から殺そうとしているんだ、このおっさんは。その現実は、俺の逆鱗に触れた。
ふざけんな、ふざけんな──ふざけんなよ!
俺の目が怒りに染まるのと、おっさんのナイフが振り上げられたのは、ほぼ同時だったろう。
俺はおっさんの右腕を掴むと、振り下ろされそうになったそれを顔面直前で止めた。こいつ、俺の顔めがけて突き立てようとしやがった。
「ふざけんじゃねえよ!」
俺は掴んだ腕をそのまま横に広げさせると、近づいたおっさんの顔面に思いきり頭突きをしてやった。おっさんは思った以上にダメージを受けて、悲鳴をあげ痛そうに顔をしかめた。しかしナイフは離さない。俺は再度、頭突きをお見舞いして蹴りを入れ、おっさんの体を運転席に戻した。
とたんに間抜けに、クラクションが屁のように小さく鳴った。
「てめえみたいなジジイにやられるかよ!」
そう言い唾を吐き捨ててやるが、おっさんはただ「いたたた」と額に手を当てているだけだった。そんなに毛根が気になるなら、ヅラでもかぶってろよ。
でもこいつは未遂であれ、殺人鬼だ。
俺はおっさんの緩んだ手からナイフを奪い取ると、その刃先をおっさんの大腿部に突き立てた。豚のような鳴き声が車内に響いた。
「俺はお前みたいなやつ、さばいたって何の得にもなりゃしねぇんだからな」
ナイフの柄を左右に揺らすと、おっさんは悶絶して悲鳴をあげた。己の哲学の美しさを説いた口からは、美しくない声が漏れている。
「襲う相手、間違えてるよ。おっさん」
おっさんの悲鳴にひどく嗜虐心を満たされて、俺は薄く笑った。やはり喧嘩でも命のやり取りでも、相手より有利な立場というものは気分が良い。
形勢逆転されたおっさんは、恨めしそうに俺を睨みつけ、呻いた。
「お前みたいな、お前みたいな若い男じゃないと、意味がないんだ!」
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