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これではじまり
あの日から十年。手の中の宝石を眺めながら、僕は一人で、福音荘の広間に座っていた。
この十年で、福音荘は随分変わってしまった。
まず、ギレンさん。彼の目標はほとんど達成されていた。完全に彼の思い通りというわけにはいかなかったようだが。ギレンさんは、今は亡きネロさんの工房を引き継いだ。それが遺言だったらしい。ネロさんとは、森の事件の少し前に会ったきりだったが、魔法使いは短命という彼の言葉は、真実だったと彼自身が示してしまった。あと一回は会いたかったのに。ギレンさんは、受け継いだ工房で、少しだけ寂しそうに、毎日作業をしている。客の何割かも受け継げたようで、職人仲間がいないことを除けば、やはり目標は達成しているのだろう。
次に、オータルさん。彼に関しては、よくわからない。城だか貴族だかに囲われて、相変わらず自分の好きなことに邁進しているらしい。時たま顔を見せに来てくれるが、かなり忙しそうだ。この十年に飽きることなく研究を続けた結果、それなりの専門家になったようで、一目置かれているらしい。研究チームのようなものに所属していると聞いたが、若手のエースらしい。ほとんどうわさに聞くだけだから、詳しいことは知らないけど。楽しそうだから、僕が気にかけるようなことでもないんだろう。
フロワさんは、少なくとも一つの夢は叶えた。師匠にも認められ、準備も整ったようで、五年前に旅立ってしまった。吟遊詩人として。それ以降、一回も帰ってこず、うわさも聞かないから、今は何をしているかわからない。でも、最後の夜に僕たちに聞かせてくれた詩や物語は、とても素晴らしかった。多分、どこかの村の子供たちに、夢中になるような歌を聞かせているんだろう。
その他にも、こっちの世界に来てから世話になった人は多いが、ほとんどの人は、変わらずにこの街の中で息災だ。最近会っていない人も多いけど、暇を見つけては色々な人を訪ねている。日本ではありえなかった過ごし方だと、自分でも少し思ってしまう。
リリィは、十年前に埋めた穴の中で眠っている。森の中で死んだのなら、森に還す。そういう風に考えるのが、こっちの世界の普通らしい。一度、福音荘の当時のメンバーで墓参りに行った。悲しみより、感謝や前を向く勇気を感じたのは、僕の身勝手だったのだろうか。
最後に、グレイさんのことだ。彼は、年齢を理由に引退してしまった。まだまだ元気だったから、勿体無いと思ったが、その決定に口出しはしなかった。結局、その管理人の役を僕が引き継ぐことになったのは多少ばかり驚いた。でも、僕より年長の三人は既に自分の道を歩き始めていて、後輩たちも夢のための努力を続けていた。僕が適任なのは、少し考えればわかることだった。いつも見ていたグレイさんの真似をするだけだと思っていたが、それが案外難しい。一年頑張ってようやく慣れてきたところだ。あと足りないのは、美味しい紅茶を入れる技術だけど、多分一生かけての課題となるだろう。グレイさん自身は、福音荘の近くに一室構えて、悠々自適に暮らしている。ぜひ、福音荘の中で、と誘ったのだが、この建物は若者のためのものだと、頑として聞き入れてくれなかった。頻繁に顔を見に行くけど、さっさと自分の仕事に戻れと追い返されてしまう。少しでも飲めるレベルのお茶が淹れられるようになったら、お菓子と一緒に振る舞うつもりだ。
福音荘は、そんなに変わっていない。かつての住人は、僕だけだ。その僕も一住人から管理人に立場が変わっている。でも、夢を持った若人が集っているのは同じだ。今は八人も住んでいて、二階だけでなく一階の一部も住人の個室として使っている。出世頭のオータルさんの影響か、研究者系の人が多い。みんなが仲良く、お互いに刺激し合っていて、我ながらいい環境ができていると思っている。あの頃のグレイさんもこんな気持ちだったのかと想像すると、ずっと口元に浮かんでいた笑みの理由もわかる気がした。
僕はと言えば、変わったには変わったのだろうか。あれ以降、剣を一度も手にしていない。神がどうとか、あまり気にならなくなってしまったからだ。リリィの一件ほど神の気紛れが関わっていそうなものもないのに、自分でも不思議だった。結局、神に運命を操作されることについて、嫌悪感がなくなってしまったのだ。不幸な事故や災害で人が死ぬことなんて、日本でだってありふれていた。ステータスという概念も、可視化されてないだけで、あっちの世界にもあったのではないだろうか。僕がどれほど努力しても、いい成績が取れなかったように。そういう風に考えるようになってから、地に足つけた生き方を望むようになった。
今思えば、なぜあれほど神を憎んだのだろうか。何をすればいいのかわからなくなって、手近な目標が欲しかったのだろう。昔の自分を思い返し、悪く言うのは趣味じゃないけど、若かったとしか言いようがない。
今の僕は、案外満たされている。夢を見る若者の援助は、悪い若さしかもっていなかった僕には合っているんだろう。かつてのグレイさんほどではなくとも、ここの住人にも慕われている。たまに会う大人たちにそんなことを言うと、笑われてしまう。まだまだ、僕も若いんだろう。そうやって、自分と向き合いながら過ごす日々が、今の僕の毎日だった。
ほら、またベルが鳴る。
「ようこそ、福音荘に」
新しい人に、福来るように。
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