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黒板に書かれる数式をノートに写していく。
お昼ご飯を食べた後の授業は、暖かな陽気と相まって、ゆるやかな眠気に襲われる。窓の外に顔を向けながら、目を閉じる。
明日は土曜日。あの人は来るだろうか。
「ありがとうございましたー」
土曜日の12時過ぎ。路面に佇む小さな定食屋には常連客が集まって来ていた。
「朱織ちゃんえらいねー。毎週ちゃんとお店の手伝いして」
「いえ、おばあちゃん1人じゃ大変ですし。大した事は出来ないですけど・・・」
常連のおじいさん・中野さんと他愛ない会話をする。
私の日課。毎週土曜日、おばあちゃんの営むこの定食屋『朱いずきん』で働いている。
小さなお店だが、近所の人達に愛され続けて今日に至る。因みに私の『朱織(あかり)』という名前も、お店の名前の一文字を貰った。
「もうすぐ受験じゃない?勉強頑張ってる?」
「あんまり無理しないでね」
「まぁでも朱織ちゃんに会いに来てるみたいなものだから、居てくれないと困るけどねー」
そう口々に語り笑う常連客達に、少し照れ臭くなりながらテーブルを拭く。まだあの人は来ない。
「ちょっと、私の料理を食べに来てくれてるんじゃないのー?」
厨房から顔を出してそう言うおばあちゃん。
強い口調だが、顔は笑っている。
それにつられて常連客達は笑い声を上げていたら、お店の扉が開いた。顔を上げると、小さく声が出た。
「あら、大神君。いらっしゃい」
そう呼ばれた作業着の男は、小さく会釈をする。
私は我に返り、拭き終えたテーブルにお通しした。ゆっくり進んで静かに席につく。大きな身体だけど、動く音は静かだな。と思った。
「ご注文は・・・」
お水を置き、大神という男性を見る。黒く少し癖のある髪を見ていたら、埃が付いていた。
「大神くん、いつもので良いー?」
厨房からおばあちゃんが尋ねた。大神さんは静かに頷いた。私は慌てて頭を下げ、その場を去った。
「大神君、今日も暑いねー」と中野さんや他の常連客達が声を掛けているのを、私は背中で聞いていた。
「朱織、あがったよー」
そう言ったおばあちゃんから料理を受け取り、静かに待つあの人の元へ運ぶ。
「お待たせしました。生姜焼き定食です」
甘辛い良い匂いが鼻腔を刺激する。大きな豚肉が山盛りで、ご飯も大盛りだからか、他の定食より重い。おそらくこの人仕様に盛られているから。
ゆっくりお盆をテーブルに置こうとすると、両手でお盆を受け止め、そっと置いてくれた。
「あ、すいません・・・」
「・・・いただきます」
そう言うと静かに手を合わせ、生姜焼きを頬張った。
身体も手もこんなに大きいのに、仕草や空気はとても静かだ。低く響く声も心地よく思える。
でも食事をする姿は真逆だ。
大ぶりの生姜焼きを大きな口で飲み込み、噛みきる。タレが口を伝う。その後すぐ白いご飯を口いっぱいに頬張る。離れていても咀嚼音が聞こえてきそう。ご飯と生姜焼きを飲み込むと、すぐお味噌汁を飲む。大きな手を片手持ちで飲んだら、また生姜焼きを口に含む。
大きな動物が食事しているような豪快さと荒々しさを感じるその姿を、接客しながら観察していた。
初めて会った時から、その姿が頭から離れない。
「それは好きって事?そのオオガミさんって人の事が」
「・・・わかんない」
昼休み。友達の奈緒に聞かれた。
「付き合いたいとか、一緒に出掛けたいとかではない。でも・・・何故か見ちゃう」
「えー?わっかんないなぁ」
それは私が一番よく分かってる。もやもやしながらお弁当をつつく。
「もしかして朱織のフェチ?食べてるところを見るのが好きとか」
「えー・・・でも他の人が食べてるところ見ても、何とも思わないなぁ」
「じゃあやっぱり好きなんじゃん!笑」
そう言って笑う奈緒。そうなのかもしれないけど、どうにもその一言では片付けられない。
「まぁ、とりあえず。何となく気になって見ちゃう人って事ね!」
うんうん、と1人で納得する奈緒を見て笑ってしまう。奈緒のこういうあっさりしたところ好きだな。
「ところでさ、今度の土曜空いてる?参考書買いに行きたいなーっと思って。ついでに美味しいケーキでも食べてさ」
「そっちがメインでしょ」
「まあ、否定はしない笑」
そう言って笑う奈緒。
「あー・・・ごめん。土曜日は手伝いがある」
「朱織毎週手伝ってるよね。大変じゃない?」
「うーん半年前におじいちゃん亡くなってから、おばあちゃん1人じゃ大変だしね。小さなお店だけど」
半年前、おじいちゃんが病気で亡くなった。
それまでおばあちゃんと二人三脚で続けていたお店だったが、「もう閉めるべきでは?」と息子であるお父さんが言った。でも「常連客達の為に続けたい」とおばあちゃんは言った。
その話しをしていた際に同席していた私は、「私が手伝う」と言っていた。おじいちゃんもおばあちゃんも、お店も大好きだったから。
話し合った結果、営業日を半分に減らし平日はお母さんが、土曜日は私が手伝う事になった。
アルバイトも接客もした事が無かったので、失敗した事もたくさんあるけど、最近は少し楽しい。
「・・・奈緒ごめんね」
「あはは!いいって、いいって!その代わり今日帰りに参考書買いに行くの付き合って?」
「うん、わかった!」
手伝う事が楽しいのは本当。でもそれだけじゃない。
初めてあの人、大神さんに会った時。
初めて近くで見る、同級生の男子やお父さんや学校の先生とも違う、男の人。大きくて、薄汚れていて、静かな人。
少し怖くて躊躇っていたら、おばあちゃんが厨房から言った。
「大神君、いつもので良い?」
そう声をかけられた男の人は静かに「はい」と答えながら会釈した。
おろおろしながらその場を離れて、レジに向かった。さっきの男の人にちらっと目を向ける。
大きな背中。黒くボサボサの頭。少し髭が生えている。無精髭?ってやつかな。
威圧感がありそうな見た目だが、何故か後ろ姿からはそれを感じなかった。
むしろその姿は子犬のように思えた。何だろう、オーラというか雰囲気と言うか。
「朱織あがったよー」
呼ばれて行くと、そこには山盛りの生姜焼きが乗っていた。
「彼はいつもこれだよ」
おばあちゃんが小声で教えてくれた。
これがあの人の、いつもの。
そしてあの食べっぷりを目の当たりにして、身体中の血が勢いよく巡るような感覚になった。子犬が突然、大型の動物になったように思えた。ショックというか、衝撃というか。
お会計をしている際に、胸元に小さな名札が見えた。『大神』と書かれている。
「ご馳走さまです」
そう言いお店を出ていく背中に、慌てて「ありがとうございました」と言う。
「おおかみ・・・?」
無意識に口から溢れていた。
でもその後すぐに、おばあちゃんから「彼は大神(オオガミ)君だよ」と教えて貰った。
大神君は、無口だけど礼儀正しいよ。とか。
近所の工場で働いている。とか。
平日は時々だけど、土曜日は必ず来る。とか。
もう何年も前から来てくれてる。とか・・・。
情報が増えてるはずなのに、どんどん謎が深まっていくようで、すっきりしない。
ただ何となく、もう一度食べてるところをみたい。
そう思った。
昨日、おばあちゃんが転んで利き手を捻挫した。
大事には至らなかったけど、悪化させてはいけないので、お店を一週間ほど休業する事にした。
次の日私は、休業の張り紙を扉に付けていた。すると人の気配を感じ、横を見る。大神さんが立っていた。
「あっ・・・えと、あの・・・」
突然の事にしどろもどろになる私。今日が土曜日だとすっかり忘れていた。
「・・・今日は休み?」
尋ねられて心臓が跳ねる。ただ頷く事しか出来なかった。
「そっか・・・」
そう言って立ち去ろうとする大神さん。何だか申し訳無くなり、慌てて声を掛ける。
「あっ、あの!来週は、ちゃんとお店開けます!」
キョトンとした顔で大神さんがこっちを見てる。
急に恥ずかしくなり、顔を俯けてしまう。
「・・・わかった」
大神さんはそう言って、少し笑った。
その時になって初めて、会話をした事。笑ったところを見た事に気付いた。
夢を見た。
何も無い、白い空間。私はただ立っていた。
少し辺りを見回したら、人が座っているのが見えた。あの後ろ姿、知ってる。
小走りで近付く。やっぱりあの人だ。
静かに椅子に座る大きな背中。こっちに気付いてない。
手を伸ばし、その背中に人差し指を当てた。
固く、ゴツゴツしてて、温かい気がする。
触れる指を増やし、中指、薬指と背中に伸ばし、片手のひらを背中に当てていた。それでもこの人は振り返らない。
ゆっくり手のひらで背中を撫でる。近付いて、手のひらを首筋まで這わせる。少し長い襟足を手で押し上げる。
少し白い、でも太い首が露になる。
次の瞬間、私は首元に噛みついていた。
そこで目が覚めていた。
この汗は気温だけのせいでは無い。
なんであんな事を?疑問とともに自分の攻撃的な衝動に怖くなる。でもすぐに、『噛みついたら、大神さんはどんな顔するんだろう』と考えている。
無意識に生唾を飲み込んでいた。
一週間後の土曜日、お店を再開した。
お父さん達は「まだ安静にしないと」と言ったけど、おばあちゃんは「もう大丈夫!」と言って聞かなかった。心配だったけど、大神さんに「来週再開します」と勝手に宣言していた事もあり、内心ほっとしてしまった。
「おばあちゃん、あんまり無理しないでね」
「大丈夫、大丈夫!わかってるよー」
そう言って笑いながら仕込みをするおばあちゃん。私は机を拭いている。
椅子も拭こうとした時に、あの夢を思い出す。
慌てて頭から消そうとする。あの日以来、見ていない。
扉が開いて、勢いよく顔を上げる。
「お!おかみさん、もう大丈夫なのー?」
そう言いながら中野のおじいさんが入って来た。
「いらっしゃいませ・・・」
「あら中野さん!今日は早いねー。ええ、もうすっかり良くなったよ」
おばあちゃんと話しながら席に着く中野さんに、お水を出す。勝手に期待して、がっかりしている。でも会わない方が良いのかも・・・などと考えていたら、また扉が開いた。
「いらっしゃいま・・・」
心臓が大きく跳ねた。
夢にまで見てしまった作業着が立っていたから。
「あら大神君いらっしゃい!」
いつもの作業着にボサボサの頭と無精髭。
小さく会釈する。
小さく深呼吸をして、席へ通す。顔が見れない。
「・・・大丈夫?」
突然聞かれて「え!?」と声が裏返る。顔に血が集まっていくのが分かる。
「おかみさん、怪我したって聞いたから・・・」
そっちか・・・。なんとなくほっとした私は、誤魔化すように笑った。
「だ、大丈夫ですよ!ちょっと捻挫しちゃったんですけど、もうあんなに元気です」
少し早口になってしまった。挙動不審と思われてないかな。
「そっか・・・。大丈夫なら良かった」
また小さく笑った顔が見れた。でも少し罪悪感みたいなものが湧いた。私はこの人をどうしたいのだろう?
「あの、その・・・」
前から言いたかった事を、勇気を出して言った。
「いつもので、良い、ですか・・・?」
大神さんは少し目を見開いた。
長めの前髪の中から、少しつり上がった目が見えた。そんな顔もするんだ。
「・・・はい。お願いします」
そう言うと、少し照れたような。でも少し嬉しそうな顔をして答えた。
また生唾を飲み込んだ。
山盛りの生姜焼き定食を持って行くと、いつも両手で受け取ってくれる。そして静かに、荒々しく肉を貪る。
一週間ぶりにその様子を見て、そして夢を見て確信した。
私はこの人に、食べられたい。
そしてあわよくば。
食べたい。
また夢を見た。
真っ白な空間に佇んでいる。まさかと思って辺りを見渡す。あの後ろ姿を見つけた。
勢いよく走って行き、背中に触れる。今度は両手で撫で、額をつける。
そしてまたうなじをなぞり、ゆっくり、強く噛みつく。
すると勢いよく振り返り、私の両手を掴んで押し倒した。私は身動きが取れず、慌てて顔を上げる。
ボサボサの黒髪の間から見えた目が鋭く、野生動物の輝きを放っていた。
口から涎を滴しながら大きく口を開け、私は暗闇の中に飲み込まれた。
目が覚めて、天井を見つめる。
そこには暗闇は無く、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。両手を見る。強く掴まれた気がしたけど、痕は付いていない。
確信してからは、頭と心が少しすっきりした。
こんなものに未来は無い。何て事は分かってる。
間違っているかもしれない事も。分かってる。
でも今確かに自分の中にあるこの感覚は、誰よりも、どんな事よりも、純粋なんだ。
土曜日の12時過ぎ。
相変わらずお店は常連客達で賑わっている。
「朱織ちゃん、来年受験生でしょ?お店の手伝い大変でしょ?」
「いえ、土曜日だけですし。手伝うのも楽しいです」
そう言いながら、空のコップにお水を注ぐ。
「でも進学とか就職とか、進路を考えないとねー」
「朱織ちゃんは将来何になりたいの?」
そう聞かれて、答えに詰まる。
私は将来、何になりたいんだろう?奈緒と同じ大学に進学?調理師の専門学校?飲食店に就職?
まだ何も、決められていない。
お店の扉が開く。誰が来たか、分かった。
「あ、大神君いらっしゃい」
厨房からおばあちゃんの声が聞こえる前に、振り返ると、あの作業着が目に入った。
いつもの少し汚れた作業着。いつものボサボサの頭。いつもの無精髭。いつもの空気。
「いらっしゃいませ」
私はそう言いながら席へ通す。小さく会釈しながら進んで席につく。そしておしぼりを渡し、尋ねる。
「いつもので良いですか?」
わざと小声で聞くと、慌てて、少し照れたように「はい」と答えた。
厨房へ向かおうとすると、大神さんの頭に小さな埃が付いていた。静かにそれを掴む。
驚いて、少し身体を揺らした。その表情を見て、私は少し意地悪そうに笑った。
大神さんは恥ずかしそうに頭をかき、俯いた。
そして、大神さんが食べるところを眺める。
荒々しく、無防備に食べるその姿を。
狩人が、仕留める獲物を見定めるように。
暖かな昼下がりの授業中。
風がゆるやかに吹いたので、窓の外を見る。
明日は土曜日。
また私は、あの人の空気に触れて。尋ねる。
「いつもので、良いですか?」
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