それは理想という名の現実

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 季節は高校生活最初のテスト期間になっていた。いつもより余裕のある放課後を私は言わずもがな、ほとんど人形作りに費やしていた。  テスト勉強は試験の直前に詰め込むスタイルで今まで押し通してきた。 高校でも通用するかはわからないが、とりあえず卒業さえできれば、うちの両親は何も言わないだろう。  テストの期間も、もう最終日。遊びの予定を話す人や部活に向かう人達で昇降口は混雑していた。 「ナノ、お弁当箱は?」  不意に、幼稚園から幼馴染のサツキが、私の手を指さして首を傾げた。私もつられて自分の手のひらを見る。 「うわ、忘れた。ちょっと取ってくる」 「ここで待ってるねぇ」  ひらひらと手を振りながら、少し間延びした話し方をするのは、高校に入ってから仲良くなったゆきちゃんだ。  二人共、私の趣味に対して変な顔をしない貴重な友人だった。  サツキは幼馴染ということもあるけど、それ以前に他人にあまり興味がない。興味がないからこそ、わざわざ他人を傷つけるようなことを言ったりしない。ある意味すごく大人だ。  もう一人の友達のゆきちゃんは、なんと筋金入りのドール好きだ。  ドールの画像をサツキに見せている時に、勇気を出して話しかけてくれた。初めてのドール友達に、私のテンションが頂点にまで上がったのは言うまでもない。おっとりしているけれど、ちゃんと気遣いのできる優しい子だ。  私はそんな二人に荷物を任せ、来た道を戻る。  せっかく早く帰れるのに何て失態だ。  心の中で自分を罵りながら、廊下をギリギリ咎められない程度の速度で走る。先生に見つかって注意なんて受けようものなら、タイムロスが長引いてしまう。 「あ」  誰もいないと思った教室には葦屋くんがいた。  その葦屋くんも、眼鏡を外して机に突っ伏して寝ている。教室はとても静かだった。私は思わず声を出してしまった口元を、無駄とわかりながら手で押さえた。  その時だ。  葦屋くんが小さく唸って身じろぎ、肘に押しやられた眼鏡が机の端からこぼれ落ちる。私は慌てて手を伸ばして受け止めようとしたが、惜しくも届かずに眼鏡は床に落ちた。  葦屋くんはまだ起きる気配がない。一瞬でも関わろうとした以上、放っておくわけにもいかず、私は眼鏡を拾うためにしゃがみ込んだ。  私も家族も、視力矯正とは今のところ無縁なので、我が家に眼鏡はない。当然、眼鏡の扱い方なんて知らない。床に転がっている眼鏡をおっかなびっくり拾い上げ、机に戻すべくそろりと手を伸ばす。 「ん……ああ。ありがとう」  カタン、と眼鏡と机が触れ合った音に反応して、葦屋くんが伏せていた顔を上げた。  その瞬間、衝撃が走った。  ドクンと胸が大きく脈打つ。そこから生まれた熱が、顔目掛けて集まっていく。呼吸の仕方すら忘れてしまったのか、喉の奥に留まっていた息の塊がため息として吐き出された。  目を離せない。離してしまうことが惜しい。  伏し目がちなアーモンド形の目。その瞼を縁取る長いまつ毛が、目元にレースのような影を作っていた。色素の薄い虹彩は、どこか不思議な輝きを持っていて、彼の皮膚の下を廻る血に異国の遺伝子が含まれていることを感じさせる。  すっと通った鼻筋も、柔らかい花びらのような唇も、絹のような白い肌に淡く色づく頬も。  全てのパーツが、緻密な計算の下に配置されているかのように、形の良い顔の輪郭の中に収まっている。  なのに、決して女性的というわけではなく、どこか性別を超越しているような美しさがあった。  ――完璧だ。  もう一度、今度は意図的にため息をつく。  私の理想とするドールの顔がそこにあった。  ふと、頭の端の、妙に冷静な部分が「なんで葦屋くんの顔が見えるんだろう」と考える。ちらりと視線を上げると、誰かにやられたのか、可愛い紫のスリーピンに彼の長い前髪が押さえられていることに気が付いた。  誰か知らないけれど、どうもありがとう。おかげで理想の顔に出会えました。  私は心の中で、葦屋くんの前髪をのけてくれた誰かを拝んだ。  時間にして数十秒とかからなかった理想の顔との邂逅。  けれど、その持ち主に疑問を抱かせるには充分だったらしく、葦屋くんは軽く首を傾げてぱちぱちと瞬きをした。 「う、ご……っ!」  唐突に私の口から出た異音に、葦屋くんは目を見開き、びくりと肩を跳ねさせた。その反応にすら私の胸は歓喜に震える。  動いている。  ついさっき、私が口走りそうになった言葉だ。  何て馬鹿なことを。動いて当たり前だ。葦屋くんは人形ではなく、人間なのだから。慌てて手で口を塞いで正解だった。 「どうかした?」  葦屋くんは控えめに微笑んだ。  もし私が平常心だったならば、様子が変なクラスメイトに戸惑い、あるいはドン引きして、警戒したからこその笑みだとわかっただろう。  けれど、興奮していた私にとって、それはまさに天使の微笑みだった。 「あ、あああ、ありがとうございますっ!!」  刹那、二人の間から音が途切れた。  運動部の掛け声と、吹奏楽部の奏でる音楽が遠くから聞こえる。 「え、なんで?」  葦屋くんは、もう完全に「何だこの女」と言いたげな顔で私を見ていた。  その目を見た瞬間、私はそれまでの自分の行動が、いかに不審であったかを自覚してしまった。  今度は羞恥心から、顔に熱が集まっていく。過度の緊張が筋肉が強張らせ、手指の細かい震えとなって外に現れた。  なんてこった。 「ご、ごめんなさいっ!」  私は上ずった声でそれだけ言うと、逃げるように廊下を駆けた。  その間も、思い浮かぶのは葦屋くんの顔だ。  あんなに綺麗な顔を初めて見た。これだ、これしかない。私が求めていたのはあの顔だったんだ。  この廊下はこんなに鮮やかだったっけ。足元がふわふわして、確かに目が覚めているはずなのに、まるで夢の中にいるみたいだ。  階段の踊り場で一旦止まり、息を整える。心臓はまだ動悸を収めてはくれない。  明日は土曜日。二日も葦屋くんに会えない。  というか会えたとしても、彼は普段は顔を隠している。怪しすぎる私の行動を目の当りにしている以上、頼み込んで顔を観察させてくれるとは到底思えない。むしろ余計に警戒されそうだ。  でも、目に焼き付いたイメージだけで、理想のドールに辿りつける気がしない。  悶々としながら、私は残りの階段をのろのろ下る。  荷物の見張りをしてくれていた二人にお礼を言うのもそこそこに、私は下駄箱から靴を下ろして足を詰める。  二人の会話に適当な相槌を打ちながら、考えているのはどうにかして葦屋くんの顔をじっくりと観察したいということばかりだった。  ――結局、弁当箱を忘れたままである事に気が付いたのは、冷静さを取り戻した寝る前だった。
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