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7/100 影踏み
文字書きさんに100のお題 015:ニューロン
影踏み
――なにも感じない?
焦点の合わない恋人の顔に、私はうなずいてみせた。
恋人の舌が私のしびれた唇をさぐっている。彼の舌は私の境界を割り、エナメルの森をぬけて、親知らずを抜いた痕をさがしあてる。
頬にあたる硬い髭の感触とシェービングローションの香りを感じる。あいかわらず唇と頬はしびれたままで、彼の舌はむずがゆい痺れにとけて消えてしまう。
――血がすこし。
額にかかる私の髪をおしあげて、恋人は笑った。
歯医者で親知らずを抜いた。
頭のなかで木の根っこを抜かれているような感じだった、というと、恋人は、麻酔がなかったら地獄だなと笑った。
エアポケットに入り込んだようにしんとした平日の午後、クライアントの接待に追われて一ヶ月休みがなかった私につきあって、恋人は有給休暇を取った。
午後三時の昼食のサラダはいまだにしびれがのこった口元に奇妙な感覚をのこした。
音を消したテレビから、ゴルフの録画が流れている。
――河名の十五番ホールは海に面しているからやりにくいんだよ。
――ピクニックにはいいけど。
味のないパプリカをかじりながら私がいうと、OB専門から早く抜けるんだな、と恋人は笑った。
部屋をシェアするようになってから三年になる。恋人の笑顔を見ているだけで幸せだった時期もあった。
喧嘩するわけでも永遠を期待するわけでもなく、空気より重く羽根よりは軽い存在感でそばにいた恋人だった。思い込みの熱病の時期をすぎ、相手の唇を水のようになめらかな感触でしずかに感じるようになったころ、私は彼のことが好きなのだろうかと疑問に思うようになった。
鎮静剤のような、おだやかなひとだった。鍵穴と鍵が合うように、出会った瞬間から息の合った恋人だったが、鍵穴も鍵も流体のように溶けきってしまった今は、彼といてもなにも感じないようになってしまっている。
彼の唇がだれの唇でもおなじような気がするし、目隠しをした彼との行為は、見知らぬだれかの行為とおなじ余韻を身体にのこすだろう。
昼食後、水のなかにいるようなゆるい行為の合間に、恋人の肩越しにゆらめく光の軌跡をみていた。
遮光カーテンのすきまから漏れる金色の光に、外し忘れた腕時計のガラスが反射して光をはなっていた。
天井にゆらめく、不安定な光。恋人に揺すられながら、空にこがれる水際の魚のように天井を見ていた。
こんな気分で天井を見上げるようになったのはいつからだろう。
彼との行為が、歯をみがく行為やシャワーを浴びる行為と同じ、ありふれた日常に滑り込んでしまった。
私の肩に顔をうずめていた恋人は、私から身体をはなすと気が乗らないようだね、とつぶやいた。
――そろそろ潮時かな?
恋人の顔にはしずかな笑みがうかんでいた。諦めるときも笑うのか、と私は思う。
それを聞くために彼は時間を割いたのだと、私はようやく気づいた。
思いが醒めたわけではない。言葉に困る私のかたわらへ身体をよこたえると、彼は私の頬におちる髪を払って、頬を手でつつみこんだ。
私は彼の背後の影を追ってあるいていた。しずかに私をうけいれる彼の笑いに、私はふいに不安にとらえられる、彼をうしなったらどうすればいいのかと、うしなう瞬間を恐れながらも幾度も思い返していた、ほんとうにうしなってしまうその瞬間の痛みになれるために。
影を飛び越えてしまった。
彼を好きでいられなくなったのか、彼との生活がありふれた日常に溶けてしまったのか、私は見分けがつかないでいる。
私は頬をつつむ恋人の手首をつかむと、つぎの休みに海へいこうといった。
――砂丘に?
家でゆっくりしているほうがいいんじゃないか、と恋人は首をかしげた。クライアントのゴルフ狂いのせいで、つぎの休みはいつになるかわからない。
砂におちる影を追いかけてみよう。
彼にもういちど、恋をしてみよう――
First Edition 2003.10.12 Last Update 2003.10.13
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