8/100 Down

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8/100 Down

文字書きさんに100のお題 022:MD Down  茅野良正が嶋田弓高を認識したのは、中学二年の秋のことだった。  委員会の会議の常連だったので、良正も弓高の顔だけは前から知っていた。が、一度もクラスが同じになったことはなく、塾も違ったせいで、個人的に話したことはなかった。ただ、漠然と同じ高校を志望していることだけは知っていた。  中間試験の近い十月の週末。良正は塾にいくまえに駅前のスーパーでMDを買おうとしていた。  実際に売場のまえに立つまでは、そんなことを考えていたわけではなかった。嫌なことがあったわけでも、MDを買う金がないわけでもなかった。そのスーパーは売場が広いわりにいつも空いていて、MDの売場はレジからは死角になっていた。  良正は顔を動かさずにあたりを見回した。耳元で鼓動が鳴っていた。とりすました無表情で良正はMDのディスクを取ると、自然な動作でディスクをコートのポケットに滑り込ませた。  傘をもってくればよかったと思った。万引きのテクニックで、傘のなかに物を滑り落とすというのがあったことを思いだしたからだ。  良正はディスクの棚にもう一度手をのばして物を置くふりをすると、MDの売場を離れた。文房具の売場を通って、インテリアの売場に出る。誰もいなかった。深い安堵感と、じわじわと湧く快感。指にあたる堅い感触に、心臓が跳ねた。あまりにもあっけなくて、緊張している自分が馬鹿みたいだと思った。 「茅野」  はじかれるように振りかえった。背後に立つ背の高い少年は、制服のうえに白いパーカーを羽織っていた。 「学校の帰り?」 「これから塾」  愛想よく笑ってみせる。自分に余裕があることを、良正はありありと感じる。嶋田弓高は当時、生徒会の役員をしていた。骨だけが先に育ってしまったような痩せた体躯に、鋭角的な輪郭の顔がのっている。短く刈り込んだ髪と、すらりとのびた背筋、強い瞳。優等生の鑑を見ているようで、良正はその雰囲気に一瞬気圧された。 「やるね」  微妙に笑みの混じった声だった。が、弓高の顔は笑っていない。  良正は無言で首をかたむけた。弓高が白いパーカーのポケットから手を出した。良正の顔が凍りつく。  弓高が手にしていたのは、良正が盗んだMDと同じものだった。一瞬手が動いた。考えるよりも先に、身体が自分を裏切った。顔から血の気が引いていく。 「貸して」  物腰は穏やかだったが、それは命令だった。良正は弓高を見上げて、弓高の目を覗きこんだ。視線の強さに耐えきれなくなって目を伏せる。良正は胸のざわつきを抑えながら、言われるがままに弓高へMDを渡した。  弓高はそのままレジのほうへ歩いていく。店員に言いつけられるのかと、良正は怯えてあたりを見回した。レジの前を通らなければ、一階へ降りることができない。不安が喉を圧迫する。気持ち悪い。良正は身体を棚にもたせかけた。  しばらくすると、弓高が良正のもとへ戻ってきた。 「どうしたんだ?」  自分を覗きこむ弓高の腕に白いビニール袋がひっかかっていた。 「……なんで買ったんだ」 「買うしかないじゃん」  拗ねたような言い方がおかしかった。助かったと思ったら、身体がすっと軽くなった。現金だなと良正は笑おうとしたが、顔がまだこわばっているのか、うまく笑うことができなかった。 「レシート貰ったから」  弓高が良正へ白いビニール袋を渡す。何も考えずに受け取って、良正はおそるおそる弓高を窺った。いまだにショックから立ち直れない良正は、弓高のつぎの挙動に怯えていた。 「帰ろう」  弓高はにっと笑って良正を手招きした。 「大丈夫だから」  良正が店員を恐れていると思っているらしい。良正は弓高に引きよせられるようにおぼつかない足どりで歩きだした。  レジの前を通るときには、さすがに心臓が跳ねた。若い男の店員は無表情にふたりを一瞥しただけだった。  ふたりは並んで店の階段を降りていった。一階の野菜売場をぬけて、スーパーを出る。  店の人間が追いかけてくるような気配は感じなかった。駅前のロータリーの歩道を歩く。弓高の沈黙が怖くて、声が出せなかった。 「これから塾に行くの? 気分悪そうだけど」  うん、と言いかけて、良正は言葉に詰まった。自分を見おろす目線が、突き刺さるように鋭かった。弓高がはじめて見せた怒りに身体がすくむ。 「今日はそのまま家に帰ったほうがいいんじゃないの?」  俺が送っていくからさ、と弓高は立ち止まって商店街のほうをふりかえった。説教でもするのかと良正は暗い気分になったが、弓高に逆らうことができない。  商店街のアーケードをくぐった。両側に店が立ちならぶ駅前の商店街は、買い物客や下校中の学生たちで車が通れないほど混み合っていた。  塾に連絡を入れなければ、と渋い顔で考えていた良正は、カサリと手のなかで音をたてたビニール袋の存在にようやく気づいた。まだお礼も言っていない。 「あの、金払う」 「いらないよ」  あっさりと弓高がいった。 「俺はお金には困ってないから」  のちに彼の趣味が貯金だと知ってからはこの答えに納得がいったが、当時の良正は、これが本当なのか嫌味なのかわからなかった。 「本当にいいの?」 「いいよ。いい経験をさせてもらったし」  良正は自分の耳を疑った。したくもない万引きをして、自腹を切って他人の尻ぬぐいをするのが? あるいは、墜落したかもしれない一人の優等生を救ったことが? 「自分がこんなに器用な人間だとは知らなかった」  良正はやはり自分の耳がおかしいんじゃないかと思った。 「俺はいままで一度も炊飯ジャーでまともにご飯を炊いたことがないんだ」  話がわけのわからない方向へ飛躍していく。 「おふくろが入院しちゃって、親父とふたりで生活しなきゃいけないんだけど、でもご飯の炊きかたがふたりとも判らなくて、カレーのつくりかたさえ判らなくて、このままじゃ家政婦を雇うかふたりで餓死するかというところまで思いつめたんだけど」  要するにそのくらい不器用なんだ、と弓高が指をたてて強調する。 「だから自分であんなことができるなんて思わなかったんだ」  自分で自分に感心している弓高をみて、良正は頭を抱えたくなった。倫理的な問題が弓高のなかからすっかり抜け落ちている。そんなことを万引きした自分には言われたくないかもしれないが。 「それに、『真面目なほうの茅野くん』があんなことをするとは思えなくて」  良正の歩みが一瞬とまる。 「『真面目なほうの』茅野くんだからあんなことをするのかと思って」  弓高は意味ありげに笑ってみせる。良正がはじめて見せた非難の表情に、弓高はさらに笑みを深めた。 「優等生をやってるとさ、なんか罪悪感感じない?」  良正は弓高に嫌悪感を覚えた。自分が何もかも見透かしているとでも思っているのか。 「あの話を聞いてから、茅野くんには興味があったんだ」  黙りこんでいる良正にかまわずに、弓高が話をつづける。 「俺と似た奴なのかなって、ずっと思ってた」 「万引きするような奴と?」  ことさらに口をゆがめて自嘲する。こんな、わけもなく万引きするやつと同類で、どうしてそんなに嬉しそうな顔ができるんだろう。 「俺にそんな度胸はないね」  実際に万引きしておいて、さらっとそんなことを言う。  商店街の長い一本道が切れて、二人はT字路を右に曲がっていった。車通りの多い狭い街道を一列になって歩きながら、良正は自分と同じ名字のクラスメートのことを思いだしていた。  自分の出席番号のひとつ前、茅野啓治は、学校の一番の問題児だった。学校にまともに来ず、来たらほかのクラスの生徒とつるんでサボったり気ままに暴力をふるったりするので、教師は彼を見放していた。良正は彼と小学校がいっしょだったので、問題児になるまえの啓治のことをすこし知っていた。  知りたくもなかった家庭の事情も耳に入ってくる。啓治の母親が障害者で、一度も授業参観に来たことがないとか、びっしょり濡れた洗濯物を車の屋根や物干しにひっかけて乾かしているとか、容赦ない子どもの残酷さで、噂は急速にひろがっていった。蔭で苛められているような気配もあったが、良正にとってそれはまったくの他人事だった。  啓治が他校の生徒から金をまきあげたという通報が、学校に入ったことがあった。土曜日の午後のことだ。  その日の夕方、良正の家に学校の教師から連絡が入った。電話を取ったのは母親だった。 『今日の午後、おたくのお子さんはどこにいましたか』  良正はまだ学校から帰ってきていなかった。教師は、うちの学校の茅野が、他校の生徒を殴りつけて金を脅し取った、と母親に告げた。  この学校に茅野はふたりいて、茅野啓治のほうが怪しいのは明白だが、一応確認のために連絡を入れた、と教師は言った。  母親は帰ってきた良正を問いただした。ものすごい剣幕で母親に怒鳴られて、いい迷惑だと良正は思った。  次の週の月曜日に学校へ行くと、良正は職員室へ呼び出された。担任の若い女の先生に、良正は頭を下げられた。 『誤解させるような連絡をして悪かったわね』  先生は苦笑しながら肩をすくめた。 『私は真面目なほうの茅野くんに連絡する必要はないと思ったんだけど、他の先生方に確認だけはしておけって言われてね』  茅野啓治の処分はまだ決まっていないので、ほかの生徒には内緒にしておいてほしいと先生はつづけた。良正はなんとなく自分が苛ついていることに気づいた。 「俺は真面目じゃないですよ」  先生はきょとんとして、それから乾いた声をあげて笑いだした。 「真顔でそんなこと言わないでよ」  この女はわかってない。良正は先生から顔をそらした。取りつくろうように一礼すると、良正は職員室を出ていった。苛立ちが胸を塞ぐ。喉から悪寒が湧きあがる。  俺が真面目なんて誰がわかるんだ。人に勝手に貼られたレッテルが気にいらなかった。もうひとりの茅野が真面目じゃないなんて誰が決めるんだ。良正は自分の顔が歪んでいることに気づいた。醜悪な顔。はみ出さないように、目立たないように、八方美人のフォーマットで武装した自分の顔。  それを壊してみたかったのか。急に立ち止まった良正を、弓高がふしぎそうにふりかえる。 「茅野?」  俺はそんなに馬鹿じゃない。万引きなんかしたところで、何の解決にもならないことはわかっている。では、なぜ。 「茅野」  自分は当然のことをしてるだけだ。適当に合わせて、適当に笑って。それができない奴が馬鹿なのだ、そう思いながらいろいろなものを切り捨ててきた。 「……良正?」  狭い歩道で立ち止まる二人を、迷惑そうに横目で見ながらサラリーマンが追い抜いていった。激しくクラクションが鳴る。ビクリと良正が肩をすくませる。 「戻ってきたか」  弓高の困惑しきった顔が良正を覗きこんでいた。そんなに自分がひどい顔をしているのかといぶかしむ。 「失礼な奴」  語尾がかすれた。声が喉に詰まる。良正は目元に触れたが、涙は溜まっていなかった。 「泣きたいなら泣けよ」  弓高のほうが泣きそうな顔をしている。途方に暮れた子供みたいだと良正は思った。 「どうしたらいいか、わかんなくなるような顔をするなよ」  弓高が短い髪をかき回しながら眉をしかめる。なぜそこでお前がいばってるんだ、と良正は突っ込みたくなったが、弓高の言葉を思いだして苦笑した。自分の不器用さを自分で証明しなくてもいいだろう、と言ったら、この男はどんな顔をするのだろう。 「なんで笑うんだ」  不可解なものを見る目つきで弓高が自分をみている。困り果てた弓高の表情がおかしかった。さっきはあんなに偉そうな奴だったのに。 「さ、行こうか」  真顔に戻った良正が弓高を追いこしていく。 「だからなにが言いたかったんだっ」 「別に」  自分でもうまく説明がつかないことが、弓高にわかるわけがない。良正は自分のとった行動を深く考えないことにした。万引きした理由も、泣きだしそうになったわけも。  そのときの良正は、自分が何度もそのことを思いだす羽目に陥るとはまったく考えていなかった。そうして、中学を卒業して、いっしょの高校へ入学した弓高を好きになった理由が、この出会いのなかに潜んでいたことも。 First Edition 1997. 
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