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9/100 真空1
文字書きさんに100のお題 036:きょうだい
真空1
底知れぬ深い沼のイメージ。
脳裏にうかんだ映像を、紀田明拓は頭をふって打ち消した。
ふたつ上の兄の恵(めぐむ)のすがたを視線で追ってみる。澄みきった双眸の背の高い少年で、明拓が八歳のときに発狂した母親とよく似ている。
母親の三津子は売れない女優だった。整った顔立ちだったが線が細く、華やかなタイプではなかった。恵も品のいい顔立ちをしていたが、集団に溶け込んでしまうような地味な存在だった。
恵は制服のネクタイをわずらわしそうに締めて、朝食の席についた。二週間後に控えた模試の勉強をしていると義母にはいっておきながら、夜半まで起きて絵を描いている。高三になってから本格的に美術の勉強をはじめても美術大学の試験には間に合わないという。恵のしていることが勉強からの体のいい逃避のようにも見えてくる。
兄は子供のころから要領がよく、面倒なことからはすいと身体をそらして逃げてしまうようなところがあった。優等生だった恵の要領のよさは明拓の鼻についた。母親が記憶喪失におちいったときも、病状が安定していた喪失時はずいぶん母に甘えておきながら、記憶が戻って母親が躁鬱をくりかえしていたころは、恵は頑として母に会おうとはしなくなった。その変わり身の早さに、母が恋しいのだと同情していた義母の香津子や義父の博生は戸惑い、恵を遠ざけるようになった。
明拓は向かいで眠そうな顔でコーヒーを飲んでいる兄を一瞥した。恵は明拓の視線には気づいていない。
恵の身体から通奏低音のようなノイズを感じる。
微弱な反応。おそろしく深い真空。真空に底などあるはずがないのだが、明拓はその思念に触れるとどこかわずらわしく、落ち着かなげな感覚を覚える。恵がなにを考えているのか、明拓は知るよしもなかったが、兄弟というだけで常に一緒にいなければならないこの兄を、明拓はできることならその暗い真空の底へ葬り去ってしまいたかった。
面の皮一枚で人間はかるく騙される。惰性でのばした肩までの茶髪をかきあげて、明拓は端正な顔に嘲るような色を浮かべた。
明拓は脚本家であった父親の俊浩に似ていた。酷薄にも見える涼しげな目をして、いつも世界のすべてが取るに足らないものであるような不遜な表情を浮かべている。
誘蛾灯の蛾の一匹を自分の部屋に連れ込みながら、明拓は二段ベッドの下の段で猫のように尻を突き出して伸びをする里奈を見ていた。
「みんな紀田のことは遊びにしとけって言うんだけど」
里奈が布団にもぐりこみ、歯にしみるような高い笑い声をあげる。
「イメージで決めつけているのよね」
口を動かすのも億劫だった。あたりは暗くなりはじめ、灰色の空気が部屋に沈んでいた。粘液の匂いのするけだるい空気が、部屋の底に淀んでいる。
物音がした。明拓は顔をあげてドアを見た。この時間に帰ってくるのは恵しかいない。
「やばい。靴置きっぱなし」
里奈が長い髪をふりみだしながら布団にもぐりこんだ。
「何とかする」
言いながら緩慢な動作でTシャツを着る。
ドアがひらいた。
「明拓?」
照明のスイッチが入る。恵は部屋の真中に脱ぎちらかされた制服をけげんそうに眺めていた。
「お前女装癖なかったよね」
「俺がスカートはいたらスーパーモデルだな」
「どこの世界にそんなごつい女がいるんだよ」
うんざりした口調でつぶやいて、恵は自分の机に鞄をおくと、部屋から出ていこうとした。
「今日はお母さんが早く帰ってくるって留守電入ってた」
思いついたようにいって、部屋を出ていく。里奈が布団から顔を出すと、
「今のだれ? 弟?」
「兄貴」
へえ、と里奈が目をまるくする。
「全然似てない」
「お前見てたのかよ」
「でもやっぱカッコイイ。違うタイプで」
里奈は手際よく下着をつけながら屈託のない声で笑った。
恵が明拓を眺めたときに感じた、微量の軽蔑の念が部屋にのこっている。
――インポのくせに。
恵が母親の三津子にしか興奮しない性癖の持ち主であることを明拓は知っていた。
「送るか?」
里奈は髪をブラシで整えながら、
「いい。いっしょにいるとこバレるとまずいから」
そう言って明拓にとびつくと軽いキスをした。
玄関先まで里奈を送っていくと、台所から夕食の匂いがすることに気づいた。
台所をのぞく。恵が手馴れたしぐさで豚の細切れ肉をフライパンで炒めている。
「さっきのは嘘かよ」
「やっぱり帰れないって」
見え透いた嘘をつく。明拓はダイニングの椅子にすわると、
「女抱けないからって人の邪魔すんな」
恵はあらい動作できざんだキャベツをフライパンに入れた。ジャッと派手な音がして、油が周囲にはねる。
「痛っ」
油で火傷をしたのか、恵が菜箸をもった手を苛立たしげにふる。
「人のベッドに女の匂いをつけるな」
不機嫌そうに言って恵はフライパンの中身をかきまぜた。
「窓開けとけよ。匂いがこもるの嫌なんだ」
「二段ベッドの上でするわけにはいかねえだろ?」
明拓は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出した。ペットボトルに口をつけてウーロン茶を飲む。
「コップにあけろ」
「誰も飲まねえだろ」
「俺が嫌なんだよ」
フライパンの中身をかきまぜながら恵が悪態をつく。ふだんは我関せずという涼しげな顔がこざかしいが、怒ったときだけはひどく子供っぽく見える。
「とにかく俺のベッドを使うのはやめろ」
「女嫌いだから?」
「知らない女の匂いなんて気持ち悪いだけなんだよ」
苛ついた動作で恵は調味料をとりだした。大雑把に瓶をふって味をつけたあとで、恵は火にかけてあった片手鍋に味噌を溶きいれた。
「味噌汁に卵」
じろりと明拓をにらみつけて、恵は冷蔵庫から卵をとりだす。
ふだんは義母の香津子がどんなに遅くなっても夕食をつくる。会社を抜けられなくなると義母はかならず家に電話を入れた。義父の博生はたいてい十二時まで帰ってこない。
兄弟はふたりともひととおりの家事がこなせるので、香津子がいなくても困ることはなかったが、香津子は夕食をつくることを大切にしていた。完璧主義者の意地と、ふたりが子供時代に両親に放っておかれたことを知っている不憫さと。明拓はもともと家族の団欒に興味をもつタイプではないが、香津子がそんな形で自分たちを気にかけてくれることがありがたかった。恵はそれすらも疎ましいようだったが。
ふたりでテーブルにむかいあって夕食をはじめた。豚肉とキャベツの炒め物を口にすると、オイスターソースの香りが口内にひろがった。子供のころは意地を張って恵の料理を食べなかったことを思い出す。
恵から微弱なノイズが伝わってくる。深い水の色を思わせる、憂鬱な波動。
「その顔やめろ。飯がまずくなる」
明拓がいうと、恵は、虚を衝かれたように目をみひらいて箸を止めた。
「見なきゃいいじゃないか」
「目の前から失せろ」
恵は食べかけの夕食を流しの三角コーナーに叩きこむと、荒い足取りで二階へのぼっていった。
ドアを叩きつける音がした。台所に時計の針の音だけが白々しくひびく。
この、明拓の神経を苛立たせる恵の思念さえなければ、恵を無視することができるのに。恵が考えている内容が言語化するわけではなく、漠然とした予感のようなものだったが、それが恵の感情であることに気づいたのは二日前のことだった。
恵が紺のダッフルコートを着込んで、家を出ていく。
今のような直感がなくても、明拓にとって恵の存在はわずらわしいものだった。
恵のことをずっと見ていた。鼻持ちならない子供だったころから、感情を漂白してしまったようないまの兄のすがたを。殺してやりたいと思っていたころから、自分の思いが掴めなくなってしまったいままで、ずっと。
恵は精神病をわずらった母の三津子をずっと慕っていた。
父が家を出奔して母が働き出したときも、恵は率先して三津子の手伝いをしていた。成績もよく、一年に一度はかならず学級委員に選出されていた。明拓は常に恵とくらべられて嫌な思いをしてきた。
母が発狂してからは、明拓のほうが優等生になり、恵はふつうのおとなしい生徒に変わってしまった。
三津子と恵は互いの分身のようだった。恵は母の思いどおりに動く人形だった。思いどおりに動かない明拓には、ふたりそろってきつい言葉を浴びせかけた。
明拓が小学校の低学年だった当時、三津子は夫が愛人のもとへはしったことでノイローゼにかかっていた。明拓が幼稚園に入った当初は、母の美貌がひそかに自慢だったが、小学校へあがるころには、母の顔には疲れからくる皺が浮かんでいた。
恵は成長するとますます完璧な人間になっていくようだった。三津子によく似た清廉な風貌と、何ごとにも長じた神童のような面をもっていた。小さい頃から身体が弱かったせいか、恵はひとりで遊ぶのが好きな子供だった。まわりの子供たちも、恵には別格の人間であるように接していた。
明拓は子供のころから三津子と恵に反抗していた。よく家を飛び出して夜中に公園や友人の家に遊びにいった。三津子は最初はそれをひどく叱りつけていたが、働きに出るとなにも言わなくなっていった。かわりに恵のほうが明拓をうるさく叱るようになった。 恵と明拓はよく喧嘩をした。それは明拓が小学校に入ってから――母親がパートで働きに出たころからはじまり、だれも止める人間がいないせいでエスカレートしていった。幼稚園のころは父の俊浩がアルコール中毒になって子供に暴力をふるうので、父から逃げることで必死だった。そのころの恵は明拓をかばってよく背中や胸に紫色のあざをつくっていた。酔っていてもどこかで狡猾な部分がのこっている父は、目立つ場所にはあざをつけなかった。
明拓は家事をおしつける恵を嫌いながらもどこかで気にしていた。恵がいちばん明拓を思っていることがわかっていたからだ。
恵は明拓に家事を教えたが、明拓は恵の邪魔ばかりしていた。それを恵が怒鳴りつけるので、兄弟の仲は険悪だった。
恵が明拓に目玉焼きの焼き方を教えていたときのことだ。恵は身長が足りない明拓を台の上に立たせて、熱したフライパンをもちながら明拓に説明した。
「フライパンはコンロであたためて、表面を覆うくらいの油をいれる」
ほんの数ヶ月前までは、恵も包丁を握ったことがなかった。だれにも教えてもらえなかった恵の料理は悲惨で、明拓はさんざん文句を言ってきた。恵の言うことに従うのは不本意だったが、ここで無様な失敗をするのも嫌だった。
恵は小皿に卵をひとつ割ると、フライパンに静かに流しこんだ。
「油がはねるから、静かにやるんだぞ」
恵はコップに少量の水を入れると、フライパンのなかに入れた。ジュッと水が蒸発して、派手な湯気がたつ。フライパンに鍋の蓋をかぶせると、明拓に卵を蒸し焼きにするのだと説明する。
「卵の黄身に火を通したいときは蒸し焼きにして、どろっとしているほうがいいときはふつうに焼く。明拓は黄身に火がとおってないの嫌いだろ?」
不機嫌そうに明拓がうなずく。
しばらくしてから蓋を取ると、水が蒸発したフライパンのなかで、黄身に白く膜がかかった目玉焼きが焼けていた。茶色のレースのようになったふちをフライ返しでめくると、恵は明拓に目玉焼きを皿に盛りつけさせた。
きれいに皿へ盛りつけた明拓に、うまいじゃん、と恵は感心する。
「よく崩れないな」
「兄ちゃんはよく崩すよね」
「うるさいな」
ぱつの悪そうな顔で恵がコンロの火を止める。
恵には、仲のよくない弟であってもいいところはきちんと認める素直さがあった。あれだけ喧嘩しても恵を憎みきれなかった理由がそこにある。当時の恵には卑しいところがなかった。言うことはきつかったが、恵の行動は筋が通ったものだった。
母親が精神病院に入院したことを契機に恵は変わってしまった。無気力になり、成績が落ちた。部屋にいてもTVを眺めてぼんやりとしているか寝ているかどちらかで、恵は伯母でのちに兄弟をひきとった香津子によく叱られていた。
ますます母に似てくる自分の相貌を、恵はどんな目で眺めていたのか。自分のすがたに劣情を催しているのかと明拓は苦い顔で考えたことがある。
自分の気のせいだと思った。
明拓が恵の背後を通ったとき、微妙な動揺が伝わってきた。
恵は自分の机にむかって勉強をしていた。明拓はベッドに向かおうと恵のうしろを通っただけだが、恵はそれをひどく恐れているようだった。このざわついた不快な感情はなんだろうと明拓は二段ベッドのはしごを上りながら考えた。
このときだけではない。TVをみているときも、夕食の食卓についているときも、恵のそばを通るだけで恵の感情を読み取ってしまうのだ。明拓はそれが自分の妄想だと思っていた。兄のことを気にしすぎているだけだと。
明拓はなるべく恵を避けることにした。が、その感情の動きが、明拓を見えない網のように縛りつける。恵のことを気にしていないつもりでも、その波動は伝わってくる。強制的に相手の心を覗き見させられているようで、明拓はひどく不快な気分になった。
明拓はなるべく恵と顔を合わせないようにした。渋谷や友人の家に入り浸って、恵が眠ったころに家に帰る日が数日つづいた。
その日も豊田駅に着いたころには、夜の十二時を回っていた。
北口を出ると、明拓は家に帰るサラリーマンとともに静かな住宅街を歩きはじめた。
十一月の夜の空気はつめたく、街灯の光も寒々しく感じられた。明拓は子供のころからよく夜の町を歩いていた。家の窓にうごく人影や夕食のにおい、家族の団欒からきりはなされてどこまでも歩いていく。街路樹の闇色の葉を光がふかい緑色に染めている。光を帯びたカーテンやネオンは、昼間の白々しい色ではなく、闇にふちどられて鮮やかな色彩を帯びていた。
三津子と恵は、子供のころの明拓が家出しているあいだどこにいたのかを知ることはなかった。幼馴染みの家に世話になっていたことは知っていたが、明拓の秘密の場所は最後まで知られることはなかった。
秘密の場所は、当時の家の物置だった。外に設置された物置に毛布とビニールシートと虫よけを持ち込むと、懐中電灯を灯して漫画を読んだり眠ったりした。父親の罵声や恵との喧嘩を忘れて、閉じこもる空間があることが明拓にとって唯一の救いだった。その当時の習慣が抜けずにいまも紀田の家を抜け出して夜に徘徊することがある。
物置ですごしているあいだに培われたかたく凍りついた芯は、自分のなかで失われることはないだろうと明拓は思っていた。他人といても心底楽しめない自分がいる。心のなかに感情の麻痺した部分があって、それはひたすら何者からも離れることを望んでいる。友人から、家族から、あるいは恋人から。
家にたどりつくと、明拓は合鍵を回して家に入った。紀田家の消灯時間は十二時なので、家のなかはすでに真っ暗になっていた。明拓は慣れたしぐさで廊下を忍びあるき、暗闇のなかで階段をのぼっていった。
二階の子供部屋にはいると、やはり真っ暗になっていた。受験生のくせに悠長なやつだと思いながら明拓は部屋のドアをしずかに閉めた。
着替えを終えると、明拓は二段ベッドのはしごを上っていった。シャワーを浴びるのは明日にしようと考える。
ふと思い立って明拓ははしごを下りた。下のベッドでは恵が片手で布団をおさえるような格好で眠っている。静かな寝息をたてている恵を、明拓は暗闇のなかで見ていた。
恵の顔は見えなかったが、今日はうなされていないようだった。恵はよくうなされて、突然狂ったような勢いではね起きることがあった。悪い夢でも見ていたのかと聞くと、恵はいつも夢など覚えていないと明拓に言った。夢を見たことがないのだそうだ。
明拓は手を伸ばして、指で恵の手をかるく叩いた。反応はない。恵の指のあいだに人差し指の先を入れても、恵は身じろぎもしなかった。
頭にそっと手を這わせた。さらりとした髪をすくように撫でる。指を下におろすと、あたたかい耳にふれた。さらに下へたどっていくと、骨ばった顎にたどりつく。ごく短い髭が指を刺した。嫌悪を感じて、指をひっこめる。
女だったらよかったのだ、とひっこめた指を手のひらに押しつけながら思う。女だったら自分の感情に整理をつけることができた。あるいは、考える間もなく自分に隷属させていたか。明拓はもういちど恵の頬にふれた。ゆるやかなラインをたどって唇のやわらかなふくらみに指を押しあてる。
男の唇だからといって、女のそれと違うわけでもないのだ、と明拓は指で唇をなぞりながら考えた。
指を離す。
唇の感触が指にのこる。
二段ベッドのはしごをあがって眠りについた。
恵のことを好きだとは思えなかった。恵を手に入れたとしても、それで自分も恵もどうなるものでもないだろう。自分が空しくなるだけだ。明拓は布団をひきあげて目を閉じた。
恵をみているとむしょうに腹が立ってくる。抱きしめたその手で首を絞めたくなる。殺したいという思いのうらに、あの女の顔がある。
石を溶かし、水を砕く夢を見た。
First Edition 1995.12.9
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