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9/100 真空2
文字書きさんに100のお題 036:きょうだい
真空2
明拓がそのノートを見つけたのは偶然だった。
その日は日曜日で、恵は家にいなかった。恵の机から明拓は古語辞典をひきだした。そのときに、ふいに明拓の脳裏に暗い水底のイメージが湧きあがった。
明拓は顔をあげてあたりの気配をさぐった。一階からはだれも上がってこない。明拓がもう一度机の棚を見ると、例の波動が明拓の全身にひびいてきた。吐き気がして口元をおさえる。
こんなにも強く恵の思念を感じたことはなかった。明拓は棚にならんでいる参考書や問題集の棚から一冊のノートを抜き出した。ポピュラーな、そっけない青のノートだった。嫌悪感に背中を圧迫されながらノートをひらいた。
眠る魚
恵の神経質な字で書かれている。怪訝そうに眉をひそめて、明拓は次のページをめくった。
ノートは細いシャープペンシルの几帳面な字で埋まっていた。ぱらぱらとページをめくると、ぎっしりと文字が詰まっている。
三都子は床に放っておいた自分の赤ん坊を足蹴にするような人だった。憎くてそうするわけではない。ただ単なる過失。赤ん坊がベッドに眠っていないことを覚えていなかっただけのこと。
視界にフラッシュを浴びせられたような光がひろがり、明拓は床に座りこんだ。
これは自分だ。明拓は突き上げてくる吐き気を喉で押し殺しながらつぶやいていた。足蹴にされた赤ん坊。家族の全員から暴力を受け、蔑まれた自分のこと。
明拓は二段ベッドの上段に這い上がると、布団のうえに座りながらノートを読み始めた。ノートに書かれていたのは、病院へ入院し、記憶をうしなっていたころの三津子と恵のやりとり、家の事情などの手記だった。しかし、母の三津子が劇団にいたころの芸名の草薙三都子になっていたり、あからさまに嘘とわかるような記述もあったりと不審な点も多かった。
文面には父と自分への呪詛がこめられていた。明拓は腹腔が冷え冷えとした怒りに満たされていくのを感じていた。
恵はこれほどまでに母親を愛していたのか。自分たちをおいて記憶喪失になった母親に。子供にやつあたりや嫌味を言って職場や父親へのうさを晴らしていた母親に。
明拓は当時の三津子の主治医であった時国医師のことを思い出していた。時国医師とのカウンセリングで、明拓は主に母親との生活のことを聞かれたが、明拓は三津子のことをなにも知らなかった。自分のことで手一杯で、母親の気持ちにまで意識が回らなかったのだ。
それにひきかえ、恵の手記のなかには、明拓が知らない母親の面影が色濃くのこっていた。どこまでが本当なのかはわからないが、恵の意識のなかでは三津子の存在は母というよりも恋人であるようだった。それでは、なぜ恵は三津子の記憶が戻ってからは一度もカウンセリングにも面会にも行こうとしなかったのか。明拓はこめかみが熱くなるような憤りを感じていた。
手記を読み終えるころには、夕刻の残照が床に落ちていた。窓の縁の影がながく床に曳かれている。明拓は深い溜息をついてベッドに沈みこんだ。全力疾走したあとのように、身体が重くつかれていた。
いったいなんのために恵はこんなものを書いたのか。明拓はこのノートを時国医師のところへ送りつけたい衝動にかられた。
明拓は子供のころに時国医師に言われたことを思い出していた。
斑のういた老けた顔の医師の顔に、炯々とした目だけが目立っている。
「お母さんは夜中に遊びにいくような友人がいたのかい?」
母のことを話していたときのことだ。明拓は診察室の椅子にすわって窓のそとを眺めていた。
「名前は知らないけど、いたと思います」
「恵君は知っているのかね」
「さあ……知らないと思うけど」
窓のそとには柳の並木があった。垂れ下がる枝を風に揺らしている。明拓にとって、陰鬱な柳の木がこの病院の印象だった。
「失礼なことを言うが」
言い置いて時国医師は言葉をのみこんだ。沈黙が明拓を焦らしはじめたころを見計らって、話をきりだす。
「お母さんの実家にこの話をしたら、お母さんはこの時期一度も実家へは帰っていなかったというんだ。ということは、お母さんは君たちにうそをついていたことになる」
時国医師はト書きでも読み上げるように滔々と明拓へ告げた。明拓が目をわずかに鋭くする。
「お母さんには男の友人がいたのではないのかね?」
「愛人っていうことですか」
眉間の皺を深くする明拓に、時国医師は直接的に言うとそうなる、と答えた。
「そんなこと知らない」
「恵君はどうかね」
時国医師は無表情で組んだ足を指で叩いていた。
「さあ。でもあいつはマザコンだから、お母さんもバラさないと思う」
母親に愛人がいることを知ったら一番動揺するのは恵だろう。おそらくは、父親以上に。
時国医師はその後、明拓に数回三津子の愛人の話をもちだしたが、明拓にはまったく思い当たるふしはなかった。自分が聞くと母親への悪意がこめられていると誤解されそうで、明拓は恵に一度もその話を切り出したことはなかった。
ノートの内容は事実であるようだった。あるいは、小説のように脚色されたものだった。明拓はこんな文章を書いておきながら、実際の母親には目をそむけつづける恵の歪みに怒りをおぼえていた。重要な箇所からは目をそむけて、自分で楽なところばかり取っているように見えるのだ。
このノートを恵の本棚にしまっておくべきか迷った。二段ベッドから降りて恵の机のうえにノートを置く。しばらくノートを見下ろして、それを自分の机に移した。恵はすぐにノートがなくなったことに気づくだろう。明拓は自分のノートのなかからまったく同じものを机のひきだしから取り出した。それを恵の本棚に放り込むと、恵のノートには古典の宿題の回答を無造作に書いて自分の机のうえに広げておいた。
夕食の呼び声がかかるまで明拓は眠っていた。ノートに触発されたのか、幼いころの夢を見ていた。
自分が小学校二年生くらいのときのことだった。明拓が遊びにいこうとすると、母親に呼び止められた。三津子のわきには仏頂面の恵が立っていて、いっしょに公園で遊んでちょうだい、と母親はいった。
「いいよ」
きつい口調で恵は言って、母を見上げた。三津子は玄関の外へふたりを追い立て、兄弟を家から追い出してしまった。
「悪いことでもしたの?」
「お前じゃあるまいし」
悪口の応酬をしながら兄弟は距離をとって歩きだす。
「公園に行くんだろ?」
公園とは反対の道路を曲がろうとする恵に、明拓は声をかけた。
「行っておいたことにしろよ」
「やだよ。バレたらしかられるの俺だもん」
「じゃ、行くだけ行ってやる」
公園まで恵は早足で歩いていった。明拓は小走りで恵のあとを追いかける。
公園につくと、恵は入口でくるりと向き直った。用は済んだとばかりに家に帰ろうとする。
「なんで兄ちゃんって外で遊ばないの?」
「俺の勝手だろ」
恵はもときた道を早足で戻っていく。明拓は兄の背中に走り寄ると、ジーンズの尻ポケットに入っている財布を抜き取った。ダッシュで公園に走っていく。
「返せよ! 泥棒!」
大声で笑う明拓に、恵は息をきらせて明拓のあとを追いかける。
「取れるものなら取ってみやがれ!」
明拓は公園の林に入ると、林をジグザグに走って森の反対側へ出た。ジャングルジムの下で、恵が森を出てくるのが見えた。機敏な動作でジャングルジムに登る。
「返せ、馬鹿!」
「もうお金ないよ」
ジャングルジムのてっぺんで、明拓は恵を見下ろして笑った。挑発に乗った恵が、ジャングルジムのパイプをつたって登りだす。
恵があるていど登ったところで、明拓はジムの滑り台で逃げようと思っていた。じりじりとタイミングをはかっていると、恵の怒号が明拓へ飛んできた。
「だからお前お母さんに嫌われるんだぞっ」
居丈高に決めつける口調に逆上する。
「そんなの関係ないじゃん。じゃあお前だって人の言うこと聞けよ」
「人のものを盗んでもいいのかよ」
「盗んでないよ、ほら」
明拓は恵に財布を放り投げた。財布は恵の胸にあたって、ジャングルジムの下へ落ちる。
「にぶいなあ」
明拓が滑り台へ移動しながら嘲笑した。恵は財布にかまわずに明拓のほうへ移動する。
「馬鹿野郎っ」
「やめろよ!」
滑り台の上り口で揉み合いになった。殴りかかる恵を避けて、明拓は恵の手首をつかんで身体から離そうとした。恵の身体がバランスを崩して倒れる。恵がジャングルジムから落ちていく。手にすさまじい衝撃がはしる。
「はなせ!」
恵が明拓に怒鳴った。恵の身体を支えきれなくなって、手からもぎ取られるように恵の手首が滑って落ちる。
丸くなった格好で右肩から地面に落ちた恵は、一回転して地面にぐったりと伸びた。
明拓があわてて滑り台をおりて恵のもとへ近づくと、恵が肩と太腿から血をながして倒れていた。
首が不自然な角度で折れ曲がり、不気味に沈黙していた。
恵を殺してしまった。
そう思ったところで目が醒めた。
夕食の食卓には、香津子と恵がすでについていた。その姿を眺めて、嫌な夢を見たと思った。実際には、恵は足や肩をすりむいただけだった。明拓はその後母親にひどく怒られたというのが事件の真相だった。
夕食を終えると、恵は早々に自分の部屋へひきあげていった。子供のころから恵はTVが好きではなかった。部屋でプラモデルをつくったり、絵を描いたり、ミステリーを読んだりするのが恵の趣味だった。
あのとき、恵は怒って明拓と二週間口を利かなかった。
それでも恵は、自分に手を離せといった。
恵はいつもそうだった。人が傷つくよりは、自分が傷ついたほうがいいと思う人間だった。
昔の兄は。
明拓が子供部屋に入ると、恵はベッドのライトをつけて本を読んでいた。
「恵」
恵は文庫本を置いてけげんそうに顔を上げた。恵はまだノートがなくなっていることに気づいていない。明拓は自分の机に広げたノートを閉じて恵に指し示した。恵の頬がすうっと紅潮する。
「『眠る魚』」
能面のような顔がひきつった。恵はベッドから下りて、明拓の手にあるノートをもぎ取ろうとする。明拓は恵の身体をかわしてノートを二段ベッドの上段に投げた。恵が梯子をのぼって上に上ろうとするのを、明拓はひきずりおろして恵の身体を床へ押し付ける。
「人のものを……」
語気がふるえている。明拓はあお向けにした恵の手を背中に捩じ伏せると、暴れる足を膝で押さえつけた。
「あれは何だ?」
「離せよ!」
「大声を出すな」
低い声で明拓が恫喝する。
「騒いだら、あのノートを親に見せるからな。時国にも渡す。マザコンのいいサンプルだ」
嘲笑に、恵は首をねじって鋭い目を明拓に浴びせた。明拓は泰然と恵の手首をつかんで締め上げる。恵が低い悲鳴をあげて足をばたつかせる。
「大人しくしろ!」
膝で恵の脚を押しつけた明拓が恵の耳元に囁いた。声を耳に注ぎこまれて、恵は苦悶の表情をさらに歪める。
「あれはお前の経験なのか?」
「お前には関係ない」
「関係ない、だと?」
明拓は恵の頬を殴った。恵の喉の奥で潰れたような悲鳴があがる。暴れる身体を自重でおさえつけると、明拓は酷薄に唇を歪めてみせた。
「答えなければ時国にバラす。お前が母親以外には興奮しないインポだって」
涙で光る恵の目がうつろに開かれた。激しくゆがんだ目が明拓を睨みつける。
「いい加減なことを言ってるんじゃねえよ」
「お前があいつ以外のだれを好きになったっていうんだ。病気だよ。ケダモノ」
明拓が片眉をあげて恵を見下ろした。
「動物と一緒にしたらシツレイだな。ケダモノ以下」
明拓の下で、恵の四肢が硬直して動かなくなった。高波のように放射されていた憎しみの波動が、ぶつりと途絶える。かわりに深い沼のようなどろりとした沈黙が、恵の瞳孔を混濁させる。
「ノートにあったことは全部本当なのか?」
明拓は横を向いていた恵の細い顎をつかんで上向かせたが、恵の瞳孔は開ききったまま、空虚に自分の顔を映している。
「お前はどうしてあいつに会いにいかないんだ? どうしてあいつもお前に会おうとしない?」
恵は反応しなかった。
「お前らのあいだで何があったんだ」
押さえつけていた恵の身体が、力を失う。軟体動物のように力の抜けた身体を明拓に凭れかけたまま、恵は死人のように沈黙していた。
無気力の壁に阻まれて、明拓は恵の顎をつかんだ指に力をこめた。
恵の頬に指の爪が食い込んで、頬が赤く染まった。恵は明拓の手に身体を任せたまま、うつろに天井を眺めている。
いつもそうだ。
深刻な話になると、恵はなんの反応も見せなくなってしまう。精神だけが身体から抜け出したようにうつろになって、だれの話も聞かず、なにも話さなくなってしまう。
そうやって、世界のすべてを拒絶してしまうのだ。
自分の存在さえも。
「言えないんだったら、言いたくなるようにしてやる」
暗い衝動に衝き動かされて、明拓は恵の綿シャツをジーンズからひきぬいた。恵の頭を無理やり上げさせて、シャツを脱がせる。恵は明拓のされるがままになっている。
なめらかな背中が覗いた。手首を恵の頭のうえで縛ると、明拓は自分の制服のベルトを振り上げた。
空気を裂くような音をたてて、ベルトが恵の背中へ走る。肉がはじける音。恵は背を反り返らせて口を大きく開いた。
悲鳴は出なかった。
熱く高ぶるような衝動に襲われて、連続してベルトを振り下ろした。そのたびにビクビクと背を反らせて顔を歪める恵は、虚空に目をみひらいたまま、痛みを感じない人形のように沈黙している。
打たれているうちに、恵が突然喉元で引き絞られるような悲鳴を発した。明拓の手が、恵の悲鳴を押し殺す。
恵の目元からボロボロと涙があふれた。
明拓に押さえられた口元に、引きつったような笑みが浮かぶ。
声にならない言葉を何度も発しようとして、恵は戸惑ったように明拓を見上げた。
口元を覆う明拓の手を両手で抑えて、明拓の手を顔に押さえつけて嗚咽を殺している。
「――何が言いたいんだ?」
恵は自分の目を明拓の手で覆って、何度も首を振った。
「いえよ」
なにか言おうとしている唇は、喉からつきあげてくる嗚咽に急かされて浅い呼吸をくりかえしている。
手首に残った浅黒い紫の指の痕を、恵は放心したように見下ろしていた。
睫に点々と涙の粒がのこっている。
明拓は恵の頬にのこった涙の痕を指でぬぐった。恵は、指が目元に近づいてもぼんやりとしている。
睫に指がふれても、恵は目を閉じようとはしなかった。
このまま恵の目をえぐり取ってしまいたいと思った。
何も見えない、何も見ようとしないこの目を。
First Edition 1995.12.9
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