11/100 Blanc

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文字書きさんに100のお題 061:飛行機雲 Blanc  四年ぶりに来た教会は、ほとんど変わっていなかった。  冬枯れの蔦を這わせたコンクリートの建物のガラス扉へ、冬木整は入っていった。  平日の教会のホールにはだれもいなかった。ホールの入口の掲示板には、クリスマス礼拝のポスターが貼られている。  掲示板のわきの鏡にうつった制服姿を眺める。日曜学校へ通っていたときは、クラスのなかで一番背の低い小学生だった。高校へ入学してから背が急に十センチも伸び、おそい変声期が来た。おさまりの悪いくせ毛とほそく色白な顔、笑っているような目元と大きな口元。悩みのなさそうな顔だと言われる。  くせ毛を手で撫でつけると、整はベージュのコートを脱いで手にかけた。紺のブレザーの襟元と紺のネクタイをととのえて礼拝堂の扉を開ける。  礼拝堂には誰もおらず、冬のよわい日差しが整然とならんだ長椅子に注いでいた。礼拝堂の中央には壁にかけられた十字架があり、演台には紺の献金箱と花の活けられた花瓶が置かれていた。  整は外へ出ると、白い納骨堂のわきを横切って、木造平屋建ての牧師館の呼び鈴を押した。  牧師の麻生敏幸が扉を開けた。今年で二十八になるはずだが、子供のころの印象ではもっと大人だと思っていた。麻生は短めの黒髪に淡白な顔立ちをしていて、大きな一重の目に黒くほそいフレームの眼鏡をかけている。ようやく百七十をこえた整よりも頭ひとつぶん背が高い。細身なせいか、濃紺のアランセーターとストレートのジーンズがだぶついて見える。  牧師はけげんそうな顔で整を見ていた。  日曜学校に来ていた冬木整です、と名乗ると、牧師はああ、とうなずいてドアを大きくあけた。 「ひさしぶりだね」  牧師は整に笑いかけると、外は寒いね、とセーターの腕をつかんで震えた。牧師はあいかわらず寒がりだった。整があわててドアを閉める。 「コーヒーでも淹れるよ」  部屋の中央に置かれたストーブからやかんを取り上げて、牧師は台所へ消えた。  集会室の延長のような部屋だった。大きなストーブのせいで部屋には熱気がこもっていた。ストーブの周囲にさまざまな椅子が置かれている。ぜんぶ貰い物だから椅子がそろわないと牧師は笑っていた。壁際にはテレビと本棚が置かれていて、本棚には子供向けの本やビデオが並べられている。  整がぼんやりと部屋の中央で立っていると、牧師はコーヒーカップが置かれた盆を手に部屋へ戻ってきた。  牧師は緑のビロード張りの椅子に腰を下ろした。自然と整の位置が向かいのまるい木枠の背もたれの椅子に決まる。整がとなりの椅子に荷物を置くと椅子に座った。  牧師が整に湯気を立てたコーヒーカップを渡す。 「なにかスポーツやってる?」 「勉強に差し障りがあることはしないので」 「南高はそうらしいね」  整の高校は県下で二番目の進学校である。一番目の学校へ追いつこうとしているせいか、行事や部活動には熱心ではない。 「今やれることは何でもやっておいたほうがいいよ。冬木君は真面目だから余計に」  整はあいまいな笑みを浮かべた。笑っているような目元がさらに和らぐ。 「今日はどうしたの?」 「告解をしに来ました」  牧師は眼鏡越しの目をまるくすると、皺を寄せた眉間に手をあてて笑った。 「告解はカトリックだよ。ぼくはやらない」  整は飲みかけたコーヒーカップをとなりの椅子に置くと、うわずった声ですみません、と言った。 「ずっと教会に来てなかったから……」 「よければ日曜の午後の礼拝においで。大人向けの礼拝だけど」  身体を小さくして頬を赤くする整に、牧師は軽やかな笑い声をあげた。 「急に大きくなったからびっくりしたけど、変わらないね」  整は組んだ両手を見下ろしていた。 「……ほんとは、変わりたかったんですけど」  整は幼いころから人と接することが苦手だった。学校の成績だけは常にトップだったが、生徒会の役員や学級委員には一度も選ばれたことがなかった。  クラスの片隅で本ばかり読んでいる整を、周囲の人間は変わり者として遠巻きに眺めていた。 「うまくいかなくて」 「君は考えすぎる子だったね」  あわい金色の光が部屋に満ちている。牧師の眼鏡が光を反射する。すっきりした一重の大きな目は、光に隠されて整には見えない。 「ぼくもこの仕事に就く前は無口だったよ」  意識して話すようにすると、重い口も軽くなってくると牧師はコーヒーを啜りながら言った。  整は翳った目を天井に向けていた。 「怖くないですか」 「何が?」 「言ったことの取り返しがつかないのは」 「否定すればいい」  かすかに整が下がった眉をひそめる。 「自分の言ったことは間違っていました、ごめんなさい、それで終わり」  整は、腕を手でさすりながら息をついた。 「それで終わるといいんですが……」 「日本人はね、争いごとを解決する能力が劣っているというよ。争いごとを避けるあまり、違う意見と折り合いをつけることが苦手だって」  整は柔和な目元に翳をひそめてうなずいた。整の頬にあわい赤みが差す。 「見ないことにされたんです」  牧師は黒いフレームごしの目をみひらいた。 「ベッドの下にかくして……母はいつも掃除するときにベッドを動かすようなので……だから見えるように」 「何を?」 「同性愛の雑誌」  整の声が低くかすれる。牧師はコーヒーカップを両手で包むようにして沈黙していた。 「どうして知ってほしくなったの?」 「クラスの人間にバレて……学校を変わりたいと思って」 「苛められてる?」 「いいえ」  整は自嘲した。 「進学校なので、内申に響くようなことは誰もしません。ただ、僕がいないところで」  整は打たれたように頭を垂れた。 「陰でなにを言われているのか、怖くて……」 「狭い町だからね」  牧師はストーブの火を弱めながらひっそりとつぶやいた。 「お父さんはまだ現職でいらっしゃる?」 「三期目です」  冬木の実家は藩の御典医をつとめた医師の家系で、係累にも地元の名士が多かった。  整の父親は県会議員であった。選挙のときは相手候補を落選させようと中傷が横行する。ゆえに、整の両親は父の評判を傷つけるような行為には非常に敏感だった。  事情を察した牧師はふかい溜息をつくと、やかんの蓋をとって中を覗き込んだ。  湯気が牧師の眼鏡を曇らせる。 「毅然としていることだね」  牧師はやかんの湯を確かめるとふたたび蓋をしめた。 「君がそのような嗜好であるなら、なおさら」 「ここにいたくないんです」  整は隣の市にある私立高の寮へ入りたいとつづけた。 「ここはいつも誰かが見張っていて、噂ばかりで」 「ぼくが君のことをバラすとは思わなかったの?」  整はやわらかい目元をひらいて、 「先生が誰かをわるく言うのを聞いたことがありません」  牧師が口元を拳でおさえて笑う。 「信用されることが商売だからね」  ぼくはそれほど寛容な人間じゃないよ、と牧師は拳を口元におしつけてつぶやいた。 「聖職者にも君のような人がいる」 「独身でいられるからですか?」 「カトリックはね。ぼくらは結婚できるよ」 「じゃ、どうして」 「救いが必要だから、たぶんね」  牧師は考えこむように手のひらで頬をつつみこんだ。 「存在が否定されているからこそ、救われたい」 「キリスト教は同性愛を禁止している……」 「ぼくは人を好きになることは罪ではないと思いますよ」 「じゃ、僕が先生を『好きです』って言ったら納得してくれますか」 「売り言葉に買い言葉だね」  牧師は眉間の皺を手でおさえて軽やかに笑った。 「コーヒーを飲み終えたら、ちょっと手伝ってくれないかな」  牧師はストーブを消して立ち上がると、となりの部屋から黒いダウンジャケットと白いビニール袋を手に戻ってきた。ビニール袋から花鋏を取り出す。 「日曜学校でクリスマスのリースをつくるんだ。材料を森に取りに行くから、一緒に行ってほしいんだ」  会話を中断されて、おちつかない気分で整はうなずいた。そして、コーヒーを飲み干すとベージュのコートに袖を通した。  教会の裏手のカラマツ林は、紅葉したカラマツの葉であかるい茶色に染まっていた。  午後の光が網の目状に落ちる林を牧師について歩いていく。林の空気はひんやりと冷たかった。ふわふわ揺れる足元で、カラマツの葉がかさりと鳴る。 「変わっていませんね」 「ここは迷路みたいで楽しいよ」  牧師の高い肩がリズミカルに揺れている。 「東京にいたころはカラマツや草が紅葉するなんて知らなかったよ」 「なんで東京からここに来たんですか?」  牧師は整をふりかえるとにやりとした。 「前もおなじことを聞いたね」 「そうですか?」 「なんで東京からこんな田舎に来たんですか?ってね」  牧師のあかるい声にまじって、春渡川の瀬音がきこえてくる。 「東京ばかりが住むとこじゃないよ」  カラマツ林をぬけると、ふたりは春渡川のほとりへ出た。厚い岩盤が幾重にもはりだした沢の遊歩道を川に沿って登っていく。 「向こう岸にアケビの木があるから」  アケビの蔓はリースの土台に使う。  コンクリートの細い橋をわたって、ふたりは対岸へ出た。整は雑木林にロープのようにからみつくアケビの木の見当をつけながら歩いた。  空を見上げると、山の向こう側から薔薇色の光をたなびかせて飛んでいく飛行機が見えた。飛行機の影が尖端からななめに落ちている。  この、目にみえない檻を出て、東京の大学へ行こうと決めた。  東京へ行けば、自由に息を吸えるような気がした。  整は木にからみついたアケビの蔓をひっぱっている牧師を見上げた。  牧師は自分の境遇をあまり人に話すことはなかった。他人の噂をするような人でもない。だから秘密を話すには牧師が適役だった。  ただ、ほかにも彼を選んだ理由があったような気がする。  整は牧師からつぎつぎとわたされる蔓を持ちながら、かすかに首をかしげた。  答えは思い浮かばなかった。  ふたりは雑木林の奥へ分け入ると、赤い実が束のようについた山帰来の蔓と、トリュフのような笠がついたカシワのどんぐりを拾った。  ヒマラヤ杉の下に落ちた実を拾っていた整がぽつりとつぶやく。 「バラみたいな……」 「シダーローズっていうんだよ」  牧師はたのしそうに手のひらでヒマラヤ杉の実を揺らしている。整がクリスマスのリースを作ったころは、松ぼっくりやヒイラギの葉を拾っただけで、あとは既成の飾りやリボンを使っていた。  東京からこの土地へきたころ、牧師は『ここは何もないところだね』と言った。そのたのしそうな響きがふしぎだった。山の陰になってテレビもろくに映らない、家もまばらなこの界隈で、牧師はあたらしい恋人とつきあっているような顔つきで浮かれていた。  ――雪がこんなに重いとは思わなかったよ。  屋根の雪おろしをはじめてしたら腰を痛めた、と牧師は笑っていた。  雪が積もらない地方の人間の無邪気さに整はあきれた。  雪なんて邪魔なだけなのに、どうしてこんなにうれしそうな顔をするのだろう。 「何人分必要なんですか?」 「二十人分」  これではぜんぜん足りない。整は手にしたアケビの蔓を見下ろして目の焦点を遠くした。 「子供たちよりもお母さんが熱心でね」  すこしずつ材料は溜めているんだ、と牧師は一杯になったビニール袋をのぞきこんだ。 「今日はこのくらいにしよう」  牧師に礼を言われて、整は首を左右にふった。手伝うために来たわけではないから、礼を言われる筋合いはないような気がした。  暗くなりかけた雑木林を抜けてコンクリートの橋へ出る。空を見上げると、夕焼けが薔薇色の雲のふちを金色に染めていた。  ずっと、あの飛行機に乗ろうと思っていた。  そしてもう二度とここへは戻ってこない。  白く渦を巻く川の淵に目をやりながら、整はふいにさきほどの答えを見つけた。 「あ」  整があげた声に、牧師がふりかえる。 「どうした?」  眼鏡のフレームが金色の光をはじいて、牧師の顔が見えない。 「なんでもないです」  整が頬を赤くして手をふった。牧師はうなずくとカラマツの林へ足を踏み入れた。  日曜学校のキャンプに行ったときのことだった。  春渡川のキャンプ場の川辺で遊んでいたときのことだ。牧師は日曜学校の生徒たちと石を投げて水切りをしていた。  子供が投げた石が、いくつもの水紋を描いて水辺をすべっていく。  ――先生はなんで東京からこんな田舎に来たんですか。  牧師は整を見下ろして言った。  ――川が反対側に流れる場所へ来てみたかったんだよ。  変な答えだった。整がどんな意味か聞こうとすると、牧師は石を投げる子供たちのほうへ歩いていってしまった。  牧師には、東京の家族や友人をなつかしむようなそぶりは見えなかった。  すべてを置いてひとりでこの街へ来る人には、わけありの人間が多かった。  整は目の前をあるく黒い背中を見上げて思った。  この人も、なにかを捨てるためにここへ来たのかもしれない。  教会へ戻ったころには、日はすっかり暮れてしまっていた。 「バス停まで送るよ」  終バスの時間ギリギリだと牧師は時計を見た。壁の時計は六時半を回っている。 「バスがなければ僕が送っていくから」 「いいです」  勝手に来たのは自分のほうだから、と整は首をふる。 「遅れたのはぼくのせいだから」  牧師は整の鞄をもって整を急がせる。整は牧師のあとについて教会を出ていった。  バス停に着くと、ふたりは小さな小屋におかれたバス停のベンチに腰を下ろした。 「ようやく今日は雪が降るかな」  牧師がひっそりとつぶやいた。今年は暖冬で、いままで一度も雪が降らなかった。 「僕は雪が嫌いです」 「どうして?」 「なんでも白で塗りつぶそうとする」  声がかすれた。整は組んだ指を見下ろして白い息を吐き出した。 「来週の今ごろ、リースを作りにおいで」  牧師の誘いに、整はあいまいに笑って応えた。牧師は道路の先にバスの灯りを見つけたようだった。 「来たよ」  立ち上がって整をうながす。整は鞄を持ち直して立ち上がった。 「まわりの人が君を悪く言うのは仕方ないことかもしれない」  バスの緑がかった光を帯びた窓が近づいてくる。 「でも、君が自分を悪く思うことはないよ」  整は一瞬、陰になった牧師の顔をけげんそうに見上げた。が、すぐにそれが牧師館で話したことの答えであることに気づいた。 「ええと……」  整は口篭もった。礼を言わなければと思ったが、何か言うことがほかにあるような気がした。  バスが滑り込んできた瞬間、牧師は整に重なるように近づくと耳元へ口を寄せた。  整の頬が熱を帯びる。 「ぼくは君の仲間です」  するどい警告音を発して、バスの扉がひらいた。  整は牧師から逃げるようにバスへ乗り込むと、だれもいないバスの一番後ろの席に倒れ込んだ。  扉が閉まり、警笛の音とともにバスが動きだす。  コートの胸元をつかんだ整は、その手のふるえがバスの振動によるものなのか自分の動揺からくるものなのか、わからずにいた。 First Edition 2003.12.25 Last Update 2004.1.11 
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