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5/100 正義の味方
文字書きさんに100のお題 005:釣りをするひと
正義の味方
「あ、そう理歩……え、いいよ」
携帯の向こうの沢木佑介は、僕が理歩といるときはすぐに電話を切ろうとする。俺が理歩といっしょにいるのは、大学の授業の帰りだからいつものことだとわかっているのに。クレープ屋のまえのベンチでクレープを食べていた理歩は、またあいつの電話か、と細い眉をつりあげた。
「怪我人が先だろ。今からそっち行くから」
携帯を切ると、理歩に食べかけのクレープをわたして、佑介のとこに行くと言った。
「ほっときなよ、啓」
怒りながらも理歩は佑介のところへ行くことを止めない。きつい顔立ちのわりには、細かいことを気にしない性格なのだ。理歩と別れると、僕は駅前の放射線通りを歩いていった。途中のドラッグストアで消毒液とガーゼを買っていこう――佑介の家の救急箱から切れていたからだ。
夕方の市電は帰宅するサラリーマンや学生で混み合っている。
駅からふたつめの上尾町ですこし人が減った。これから飲みにいくサラリーマンが、軽い足取りでホームを歩いていく。
上尾町は歓楽街だ。飲み屋街の向こう側にはヘルスやソープが立ち並ぶ。ゲイバーでダウンした佑介を連れてかえるよう、マスターから携帯に連絡があるとき以外、僕が上尾町に足を踏み入れることはない。今年の春にようやく軽自動車を手に入れた僕は、ていのいいタクシー代わりだった。
――よく沢木とつづくわね。
佑介がゲイであることを知っていて友達をつづけていられることが、マスターには信じられないようだった。
――友人だから続くんじゃないスか?
僕の言葉に、マスターは確かにね、とタバコを持った手で額を押さえた。
佑介が嫌われる理由ははっきりしている。見た目は羊のようにおとなしく優しげな「いい人」なのに、つきあっている相手がいる奴にしか手を出さない「壊し屋」だからだ。釣れない魚ばかり釣ろうとするから、佑介の周囲にはトラブルが多い。唯一の家族だった父親が単身赴任でひっこしたせいで歯止めがきかなくなっている。
友人としては悪い奴ではない。派手なネオンが視界を流れていくのを見ながらため息をつく。
佑介が男を好きになることには佑介の復讐みたいなところもある。
小学校の四年生の夏休み、母にたのまれてコンビニへ買い物にいった帰りのことだ。
僕は夕立が降りそうな空を気にしながら、大急ぎで家へ帰ろうとしていた。
有刺鉄線が張られた空き地で、なにかが光ったことに気づいた。
緑のジャングルになった空き地で、ざわりと草が動いていた。有刺鉄線の破れ目の向こう側では、草がねじ伏せられたように倒れていた。
人の話し声がする。
僕は立ち止まった。ヤバそうな気配。痴漢だ。僕はコンビニの袋から殺虫剤を取り出すと、音がしないようにビニールの包装をやぶった。そうして、有刺鉄線の破れ目から空き地へ入っていった。
足元で草がミシミシいうのが気になる。子どものスニーカーがひとつ転がっていた。男物だ。僕は喉元で言葉を飲み込んだ。
数メートル先で、男の低い声がきこえた。
――アイシテル。
子供の足と、散乱した体操服、男の紺色の背広が見えた。
僕は大声を出した。
――かじだっ! ちかんだっ!
なぜ最初が火事だったのかはいまでもわからない。
男が飛び上がってふりむいた。セットした髪が、海苔みたいに額にはりついて落ちている。まじめそうなサラリーマンだった。
僕はそいつの顔めがけて殺虫剤を噴射した。男が血まみれの手で目を押さえて悲鳴をあげる。僕は一瞬、殺虫剤で顔が血だらけになったのかと思ったが、その血は男のものではなかった。
男の足元にころがっていた子供と目が合った。同じクラスの沢木佑介が、泣きはらして膨らんだ目を僕に向けていた。殴られたのか、左眼の下の頬が青と黄緑色のあざになっている。胸までたくし上げられた白いシャツに、つぶれた草がついていた。
佑介は当時、女の子みたいな顔をしていた。プールで黒く焼けた体と、くっきりと白い海パンの跡。しばらくあっけにとられていた佑介は、僕の目をみて怒ったように股間を覆いかくした。
――ちんぽ剥かれた。
一瞬見てしまった佑介の血まみれのペニスは、赤黒い血の膿を出して勃起していた。
――大丈夫か?
――いてえよ。
股間を隠しながら佑介が下着を探す。地面に転がっていた男が目を押さえて逃げ出すのを、僕は全力で走って止めようとした。
男の手をつかんだ瞬間、男の肘がみぞおちに入る。
苦いものが喉からせりあげた。
吐き気と腹がつぶれたような痛みに、僕はその場にしゃがみこんではげしく咳き込んだ。
――有籐、大丈夫?
服を着た佑介が僕の名前を呼ぶ。
――ごめん、逃がしちまった。
――逃がさねーよ。
佑介の手には、男が忘れていった紺色の背広が握られていた。
――財布があったから、中身、山分けにしようぜ。
佑介は男に襲われた直後にしては、異様に落ち着いていた。
財布に入っていた二万円をふたりで分けると――二千円は一応のこしておいた――財布に入っていた免許証をもって、ふたりで警察に行った。
警察に行くと、佑介はまず近所の病院で傷の手当てをした。血がたくさん出ていたのは男と格闘したときに足の付け根を切っていたからで、ペニスをむりやり剥かれた以外、佑介にひどい怪我はなかった。
佑介が病院に行っているとき、間抜けにも男も同じ病院に行っていた。目を火傷した男は、痴漢の現行犯で逮捕された。
男が逮捕されたことで、佑介は怒りながらもほっとしたようだった。
その男は、同じクラスの柴田優実の父親だった。
次の日の新聞と地方版のニュースに、柴田優実の父親が小学四年生の男子生徒――佑介の名前は出なかった――にわいせつな行為を働いたことが実名で報道された。
夏休みだったにもかかわらず、噂はものすごい早さで広まった。ヘンタイな父親をもった娘。柴田優実の家は僕らの家と同じ町内にあったので、僕らは朝のラジオ体操のときに柴田がほかの女子から無視されていたり、プール登校のときに泣いたりしているのをよく見かけた。
柴田優実はおとなしい子だった。髪をうしろでふたつに分けて、額の髪の毛をピンでとめている。印象のうすい一重の目をしていたが、顔立ちは整っているほうだった。
柴田の父親に襲われたのが佑介だということを、警察や学校は内緒にしていた。僕も先生や佑介の親からかたく口止めされていた。
ラジオ体操のいちばん後ろの列で、プール登校のときのプールサイドで、佑介は柴田のことを見ていた。羊みたいな大人しげな顔が強張っていた。
僕は、佑介は柴田がいじめられているのを当然だと思っているのだろう、と考えていた。
夏休みの最後の日、プール登校に来た帰りに、僕と佑介は水着を着たままの柴田が校庭の水道で服を洗っているのを見かけた。
白いシャツは泥だらけになっていた。
柴田は僕たちに顔を見せないように下を向いて、白いシャツを石鹸で泡だらけにした。
佑介は僕にスポーツバッグを押し付けると、柴田のところへ走っていった。
――佑介!
柴田に殴りかかるんじゃないかと思って、僕は佑介のあとを追った。
佑介は柴田の手から白いシャツを取ろうとした。
――やめてよ!!
柴田はシャツをおさえて佑介からものすごい勢いで離れた。
――俺はなにもしねえよ。
――はやく行って。
――ごめん。
佑介がつぶやいて頭を下げる。柴田はきょとんとしていた。
――俺のせいで、ごめん。
柴田は父親の被害者がだれか知っていた。佑介から逆に謝られて、柴田はなにを言っていいのかわからないとでも言いたげな表情を浮かべた。そうして、白いシャツの泡を乱暴に洗い流すと、無言で校門へ走っていった。
――なんで佑介が謝るんだよ。
佑介のスポーツバッグを返しながら言うと、佑介は、重苦しい面持ちで地面の砂を蹴った。
――あいつは悪くない。
二学期がはじまってからしばらくすると、柴田は引っ越して町からいなくなった。
僕らはリンチに遭っていた柴田をどうすることもできなかった。ただ黙って、教室から柴田のものだった机と椅子を片付けた。
家の最寄りの駅――初日野までくると、僕は駅前のコンビニでドリンク剤とゼリーを買った。
佑介は、殴られて口のなかを切ったと携帯で話していた。顔の形が変わってなきゃいいけど、とあごを撫でながら思う。
コンビニを出ると、駅前のだらだらと長い商店街を歩いていく。
佑介がはじめからホモだったのかどうかはわからない。が、佑介が恋人のある男ばかりを寝取るようになったのは、たぶん気持ち悪くない愛を探しているからだろう。
佑介は、自分を好きになる奴には見向きもしなかった。自分に向けられる思いは気持ち悪いものでしかなかったからだ。
――アイシテル。
柴田の父親に耳元でささやかれていたことを思い出す。
でも佑介がだれを奪い取っても世界には気持ち悪い愛しかなくて、佑介はいつも恋人のある男を寝取っては捨ててしまう。
――いつか誰かに刺されるよ。
ゲイバーのマスターや理歩はそう言うけれど。
佑介は僕と理歩の関係を気持ち悪くない愛だと思っている。どうしてそう信じているのかは知らない。が、なにか大切なものをみる顔で、佑介は僕と理歩のことを見ている。
僕はそんな佑介をばかだと思う。
長い商店街を抜けると市営の住宅団地があり、その裏手に佑介のアパートがある。アパートの鉄製の階段を上っていく。
僕は佑介の正義の味方を演じている。周囲の奴は佑介を甘やかしている、と言う。あいつを甘やかすとろくなことがない、と。
でも、世界じゅうの人間の平和を守ることなんて誰にもできないのだから。
アパートの鉄製のドアをあける。
世界でひとりだけの平和を守る正義の味方がいてもいいじゃないか。
First Edition 2003.6.18 Last Update 2003.6.20
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