6/100 水の中の影

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文字書きさんに100のお題 006:ポラロイドカメラ 水の中の影  ゲイのサークルの友人十人でバーベキューをすることになった。街から車で三十分ほど走ったところにある鱒釣り場へ行く。道志川の上流にある自然の釣堀は、澄み切った秋空のもとでサワサワと水音を立てていた。  釣り竿を借りてきた奴らが釣りをしたり、鉄板を運んできた奴らが火を起こしたりしている。  俺はバーベキューの誘いを断る予定だった。が、恋人の岩崎安成が来たいといったので、しかたなくここにいる。  岩崎とは二年つづいた。最長記録だ。周りの連中は、岩崎の適当さに救われてきた仲だという。互いにすこしずつ浮気しながらつきあってきたが、最近は、俺の仕事が忙しかったせいか岩崎と会うことも少なくなっていた。  周りの連中は、岩崎が俺からほかの男に乗り換えようとしていることに気づいていた。奴らは恋人を取られた俺がどんな反応を示すのか、遠巻きに眺めていたが、俺は岩崎の浮気の相手に関心がなかった。とくに気にするような相手でもなかったからだ。  俺は誰かとつきあっている奴にしか興味がなかった。当時を知る奴で俺のことをよく言う男はいない。  ――沢木。そろそろ岩崎と別れたら?  二週間前のことになる。最初にそう言ったのは、岩崎の高校時代の先輩の神永哲士だった。神永のほうが俺や岩崎より二つ年上なので、今年で二十六になる。神永は、岩崎の友人のなかでもとびぬけて変人だった。ひょろりと高い背を猫背にして、白く面長な顔に丸いサングラスをかけている。短めの茶髪に丸いサングラス、猫のように笑った口元、黒いシャツに更紗のベスト、女物の巻きスカートを穿いている。この格好と女言葉で会社でも通している。神永はテキスタイルの会社のデザイナーだった。ゲイでもなければ、保険会社の総務という地味な仕事の俺とは縁がない人間だろう。  ――今のうちに別れておいたほうがいいわよ。  クラブから岩崎のマンションへなだれ込んで、オールで飲み明かしていたときのことだった。ほかの連中は酔いつぶれ、神永と俺だけが冷凍庫で冷やしたウォッカを飲んでいた。  明け方の光がうっすらとカーテンから洩れている。  ――あんたは悪いことばかり当てるからな。  ――そんなことはないわよ。  壁にもたれて座りながら、神永は四角いショットグラスを光にかざした。  ――あなたたちは見たいものを見るけど、私は見えるものを見る。それだけよ。  グラスのなかで凍ったウォッカがどろりと歪んだ。  神永は人の感情を読むのが上手い。とくに人の秘密や別れる時期など、マイナスの感情を当てるのが異常に上手いので、神永のことを気持ち悪いという奴も少なくなかった。  神永の瞳は真鍮のような金色を帯びた緑だった。神永の先祖に外人はいない。医者の話では、稀にそんな奇形があらわれることがあるという。酒の肴に目の話が出ても、神永は丸いサングラスを取ることはなかった。  俺は神永に気に入られていた。岩崎は俺たちのことを不吉な取り合わせだな、と笑った。誰とも寝ない神永と、誰とでも寝る俺。妙な組み合わせだった。  岩崎は、高校時代の神永がゲイであることをオープンにしていたのがショックだった、といった。  ――当時はもっと暗く悩んでたからさ。先輩みたいに飄々とした顔はできなかったね。  岩崎のほうをふりかえる。岩崎はかまどの前で長めの硬い髪をぐしゃぐしゃとかきまぜて笑っていた。長身でがっしりとした身体、ストレートのジーンズと黒のポロシャツを着ている。浅黒く作りがはっきりとした顔立ちにはエスニックな雰囲気があった。  岩崎は肉を焼いている遠野隆冶に笑いかけていた。岩崎の浮気の相手だ。遠野は歌舞伎役者に似た一重の大きな目、すっきりした顔立ちの小柄な男で、高校時代に剣道部の先輩にヤられて同性愛者になったという。小学校のときに男に強姦された俺と似たような境遇だった。  バレないようにやれば浮気もOK、という互いのルールが最近は崩れかけていた。  相手ひとりだけで満足できる関係ではなかった。外で遊んでいるだけ、互いを大事にする気持ちが強かった。俺は、岩崎が遠野と浮気していることに何の関心もなかったが、携帯の履歴を誰かに覗かれたり、家のポストを荒らされた痕跡があったりしたので、岩崎がヤバい相手にひっかかったのではないかと思っていた。 「肉焼けたぞ、肉!」  岩崎の声で河原で遊んでいた奴らが引き揚げてきた。牛肉が焼けるいい香りが風にのって漂ってくる。岩崎と遠野が肉の入った紙の皿を配っている。岩崎は料理が好きなので、こういう場では重宝される。俺は皿をもらおうと岩崎のほうへ近づいた。 「働かない奴にはやらねーぞ」  皿に手をのばした俺の目の前から、岩崎がひょいと皿を取り去る。周囲の奴らが爆笑する。酒くさい空気に気分が悪くなる。クーラーボックスからビールを取ると、俺は一気にビールを飲み干した。 「働いた」 「飲んだだけだろ!」  岩崎に後頭部を叩かれる。いてえな、と呟きながら岩崎の手の皿を奪い取る。追いかける岩崎からダッシュで逃げる。  河原の下流で神永が釣りをしていた。 「神永、肉焼けたって」 「そう」  神永は、川の流れに釣り糸を泳がせると、餌をたしかめてもう一度釣り糸を川へ放った。神永のサングラスが光をはじく。 「取ってこようか?」 「そうして」  川辺に石で固定された魚篭を覗き込んでみたが、魚が取れた気配はなかった。  俺は自分の皿を石のうえに置くと、もう一度かまどのほうへ歩いていった。ほかの奴らの魚篭には鱒がうねって泳いでいる。釣堀で魚が釣れないのだから、神永はよほど釣りが下手なんだろう、と呆れる。  ビニールシートの上から肉がのった皿と割り箸を取る。岩崎が俺の名前を呼んだ。  顔をあげると、一メートルはなれたところにポラロイドカメラをかまえた岩崎がいた。 「あ、待って!」  背後から遠野の声がしたのと、シャッターが切れたのが同時だった。 「おもちゃみてーなカメラ」  俺がプラスチックの安っぽいカメラを覗き込むと、 「ビンゴの景品だったからなー」  カメラが吐き出した写真を俺に渡しながら岩崎がいった。もっと撮ってくる、と岩崎が手をあげて立ち去る。  自分で焼いた肉も食わずに写真を撮っている。宴会部長と陰で噂されるだけのことはある。  遠野を無視して河原の下流へあるいていった。チリチリと嫌な気配を首筋に感じる。遠野の視線だ。 「肉もってきた」 「ビールは?」 「忘れた」  そう、と神永が猫背をまるめて頷く。  ふたりで河原にすわって肉を食べた。神永がいたところはかまどから三十メートルくらい離れているので、ほかの奴らの声は聞こえてこない。川の音だけがする。 「あんたが釣りするとは思わなかった」  神永にアウトドアな雰囲気は似合わない。そう、と神永は子供にするように深く頷いた。 「沢木が来るとは思わなかったわ」 「岩崎が来たいっていったから」 「遠野君が来ることを知ってて?」 「俺は気にしねえよ」  向こうは気にしてるみたいだけど、と像があらわれはじめた写真を神永に渡す。神永は、河原の石のうえにポラロイドカメラの写真を置くと、しだいに鮮明になるふたつの影に目を落としていた。  サングラスごしに見える緑の目がふと翳った。 「沢木」  神永が写真を俺に渡す。写真を見ると、手前にうつった俺の顔がぼやけて、うしろのビールを掲げた遠野にピントが合っていた。  ざわりと胸が騒いだ。  ――あなたたちは見たいものを見るけど。  ウォッカをかざした神永の言葉を思い出す。  ――私は見えるものを見る。  そのあとで話したことは何だったか。 「『コップのなかの水に意味はない』」  俺は神永に反芻してみせた。 「『人が勝手に意味を見つけるだけ』」 「おかげでちっとも傷つかないわ」  神永が猫のように口元をひきあげて笑った。  ――コップのなかに半分の水があって。  オールで飲み明かしてから数日後のことだ。心理テストみたいな話、と神永は車を運転しながら呟いた。  ――まだ半分水があると思うか、もう半分しか水がないと思うか。沢木はどちら?  ――半分しか水がないほうだって言いたいんだろ?  ――コップのなかの水に意味はないわよ。 「偶然でしょう?」  川辺を眺めながら神永は言った。  偶然ではないと思ったのは、俺のほうだった。  目の前にいた俺より背後の遠野に向いていた視線を、偶然とは思えなかった。  むしろそのことに何の悲しみも怒りも感じない自分のほうがショックだった。  胃から不快な空気がこみあげてくる。  かんたんに失うことができる相手だから好きだった。二年間も。  自分についていた嘘に気づいてしまった。 「――別れようかな」 「そう」  結末がわかっていたくせに、神永はしらじらしい顔で驚いてみせる。 「最初に岩崎と別れろっていったの、あんただったな」 「そうだったかしら」 「あんたはいつも悪いことばかり当てる」 「そんなつもりはないけどね」  神永は丸いサングラスごしに俺をみている。表情をかくしたサングラスの奥から、人の裏側をのぞきこんでいる男の顔を見たくなる。 「何?」 「貸して」  サングラスに手を伸ばした俺の手を神永がはらった。 「目が弱いのよ」 「貸せよ」  神永は目を見られることを嫌う。 「泣きそうなんだ」  しれっとした顔で俺が嘘をつく。含みのある表情で神永がサングラスを取る。翳った緑の目の下にふかい皺が浮かんでいる。神永がサングラスを取ったところをはじめて見た。柔和な目をした、疲れた男の顔が、不機嫌そうに歪んでいる。 「すぐ返してよ」  サングラスをかけると、視界がセピア色に染まった。複雑な面持ちで俺を見ている神永と、あいまいな色の雲がうかんだ空、濃い色の杉林が目に映る。  立ち上がって川辺に歩いていくと、川の流れに沿ってたくさんの鱒が泳いでいるのが見えた。水面の光の反射がサングラスで遮られて、魚影がくっきりと水の底に映っている。 「こんなに魚いるのに、なんで釣れないんだ?」  神永が立ち上がって俺のとなりに並ぶ。  神永は口元にふてぶてしい笑みをうかべていた。 「はじめから餌、つけてないもの」 First Edition 2003.6.22 Last Update 2003.6.23 
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