只の夢

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「おばあちゃん、どこ行くの?」 祖母は、日本ではあまり見かけない、舞踏会にでも行けちゃいそうな綺麗なドレスを着て、バス停に立っていた。 ご丁寧に、フリフリの小さな日傘まで差している。 わたしの知っている祖母は、もんぺに割烹着、それから頬かむり。 昔話に出てくるような、ザ・おばあちゃんである。 「お出かけするのよ」 半分だけ振り返り、嬉しそうに笑う。 隣には、同じくドレスを着た知らないおばあさん。 お友達だろうか。 とても仲が良さそうだ。 それにしても、違和感だなぁ、目立ってるし。 程なくして、バスがやって来た。 よく知っている、ブルーの車体。 わたしの父は、バス会社に勤めていた。 勤め上げ、引退した。 わたしの祖母と知らないおばあさんは、高いステップを軽やかに上がり、バスに乗り込んだ。 まるで、二十代の身のこなしで。 やがて二人だけを乗せたバスは、ボウッと見守るわたしを残して、傾斜を上り始めた。 ゆるゆるふわりと。 上に、上に。 見送っていたら、首が痛くなった。 そのくらい、空の向こうにのぼっていった。 そして、見えなくなった。 「寂しくないねぇ、お友達が一緒なら」 母が言った。 「まさか、同じ日に亡くなるなんてね」 立ち上る煙を背にして車に揺られながら、叔母がしんみりと頷く。 祖母がわたしに残していった夢は、その実、何を意味していたのだろう。 真実は、分からない。 だけど、個人的にこう思った。 きっと自慢だったのだ、一人息子が。 立派な会社に入って、良い嫁さんをもらって、最期まで面倒をみてくれた息子が。 例え、血が繋がらなくとも。 時代に揉まれた波乱万丈の長い人生をようやく走破し、肩の荷が下りて、やりたいことをやったら、あんな感じになったのかもしれない。 もしかしたら、生きてる時も、綺麗に着飾って出掛けたかったのかもしれない。 わたしが思ってるよりずっと、無邪気でお転婆な女の子だったのかもしれない。 もう、誰も知らないけれど。 何より、そこにあったのは確かな愛情。 言葉のいらない絆。 父に伝えるかどうか迷ったけど、だから、何の気なしに、雑談ついでに話してみた。 父はしばらく無言で空を見上げ、それから 「そうか、ありがとう」 そう言って、静かに微笑(わら)った。 梅雨の()の、緑の風が爽やかに吹く晴れた日だった。
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