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少女は住宅街を歩いていた。制服を着て肩から鞄を下げたごく普通の少女が、澄み渡った青空の下、住宅街を歩いていた。太陽の光が降り注ぐ中、少女は笑顔で歩いていた。
住宅街を歩いていると、一画にお洒落なカフェがあった。
店の中こそ見えなかったが、そのカフェの前には小さなテーブルや椅子、観葉植物が置いてあった。あまりにもお洒落なそのカフェを、少女は最初、直視できなかった。それでも頑張って、カフェの前に置いてある看板を見た。
看板にはこう書いてあった。
『買ってきてくれたんだ、優しいね! ありがとう!』
少女はその看板を見て、カフェを眺めて、楽しそうにカフェのある角を曲がった。少女はさっきよりも明るい笑顔になっていた。
制服を着た少女は、尚も笑顔で歩いていく。次の一画には可愛い雑貨屋があった。
店の中こそ見えなかったが、その雑貨屋はファンシーな外装をしており、窓際には小さなティーポットや可愛いぬいぐるみが置いてあった。あまりにも可愛いその雑貨屋を、少女はやはり、直視できなかった。それでも頑張って、さっきよりも自然に雑貨屋の前に置いてある看板を見た。
看板にはこう書いてあった。
『庇ってもらってごめんね? ありがとう!』
少女はその看板を見て、雑貨屋を眺めて、楽しそうに雑貨屋のある角を曲がった。少女はさっきよりも楽しそうになっていた。
制服を着た少女は、尚も楽しそうに歩いていく。次の一画にはスタイリッシュな美容院があった。
店の中こそ見えなかったが、その美容院は白を基調とした外装に、筆記体の店名が書かれていた。あまりにもかっこいいその美容院を、少女は直視するしかなかった。頑張って、自然を装って、美容院の前に置いてある看板を見た。
看板にはこう書いてあった。
『おかげでストレス解消になったかも。ありがとう!』
少女はその看板を見て、美容院を眺めて、美容院のある角を曲がった。少女は満面の笑みになっていた。
『なんか、見てて面白いよね。ありがとう!』
『もう一回やってよ。やってくれる? ありがとう!』
『いつもいつも私たちのために、ありがとう!』
少女は店の看板を見る度に、角を曲がった。どんなお店の前でも、笑顔に、楽しそうに、歩いていた。陽の光と同じくらい、少女の姿は明るく見えた。
何十度目かわからないが、少女はとある店の角を曲がった。その先は少し広い通りになっており、道の両脇にはお洒落な店がずらりと並んでいた。そして、どの店の前にも看板が置いてあった。
どの看板にも、同じことが書かれていた。
『死んでくれて、ありがとう!』
少女は看板の文字を見て、足を前に動かした。
死んでくれて、ありがとう――――
少女の足と手が、前へ前へと動き出す。少女の顔には笑顔が貼りついていた。
死んでくれて、ありがとう――――
広い通りのその先には、踏切があった。踏切の棒は少女を迎え入れるかのように、大きく開いていた。
死んでくれて、ありがとう――――
少女は踏切に向かって笑って歩く。看板を見る度に、口角を上げる。看板を見る度に、大きく腕を振る。
死んでくれて、ありがとう――――
踏切を越え、線路の真ん中で、少女は立ち止まった。踏切の棒が下りる。電車が向かってくる音が鳴り響く。
死んでくれて、ありがとう――――
電車が近づいてくる。しかし、少女は動かない。少女は笑っていた。今までで一番の笑顔を、作っているようだった。
死んでくれて、ありがとう――――
電車が間もなく少女の元へたどり着く。少女は最大限の笑みを浮かべる。少女の後ろの街並みが、少女の後ろの看板が、まるで歓声を上げているようだった。
死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――死んでくれて、ありがとう――――
「馬鹿、これ以上無理するな!!」
歓声の中で聞こえてきた、無理するなという言葉。少女はその言葉に引っ張られるように、一歩だけ歩いた。
次の瞬間、少女の後ろで、電車が通り過ぎた。電車の音が鳴り響き、風が追いかけるように通り過ぎる。そして、少女の顔から笑顔が剥がれ落ち、涙が一気に零れ落ちた。
踏切を渡りきると、そこにはクタクタのスーツを着た少女の父が立っていた。
少女は父を見るやいなや、一気に走り出した。
「お父さん…!」
少女は父に抱きついた。そして、大声で泣き始めた。
「ごめんな、俺がちゃんと見てやれなくて……! 無理しなくていい、お前のままでいいからな……!!」
父は少女を抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「生きていてくれて、ありがとうな……」
少女は泣いた。少女は、泣いて泣いて、泣き喚いた。少女の口からは、今まで溜めに溜め込んでいた苦痛の言葉が溢れて出てきた。父は、その言葉を真剣に、優しく、聞いていた。
泣き終わると、少女は立ち上がった。父は少し心配したが、少女はもう大丈夫と、父に向かって言った。
少女は前を向く。そこには、様々な店が立ち並んでいた。シンプルな店、汚い店、よくわからない店……。店の前に置いてある看板も、書かれていることはまちまちだった。
『な~、今週だるくね~? お前はよく頑張るよな~』
『あ、ここ面白そうじゃない? 今度一緒に行こうよ!』
『あのさぁ、無理しなくていいんだって! ほら、もっとわがままに!』
ただ、どの店の中も明るく自然な店員がおり、その中には様々な看板が準備してあった。おはよう、お疲れ、ごめんね、ドンマイ、またね、気にしないで、ありがとう……。
少女はふと思い出したように、道の真ん中で鞄を開けようとした。鞄のチャックは思ったよりも固く閉まっていたが、それでもなんとかこじ開けた。
鞄の中には一冊のノートがあった。ノートを開くと、自分でも書いた記憶の無い助けを求める言葉が、ノート一面にびっしり書いてあった。
『もう嫌、無理、嫌い、怖い、痛い、逃げたい、楽になりたい……』
少女はそのページを破り捨て、そして新たに一言だけ言葉を書いて、ノートを鞄にしまった。
少女は住宅街を歩いていた。私服を着て肩から鞄を下げたごく普通の少女が、日差しが隠れた曇り空の下、住宅街を歩いていた。少女はもう笑っていなかった。それでも、どこか嬉しそうだった。そして、少女は色んな店の前で立ち止まったり、立ち寄ったり、たまには店員と揉めたりして、真っすぐ真っすぐ歩いて行った。
『お父さん、みんな、ありがとう…!』
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