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夏休みが明けて二週間、学校へは一度も行けていない。
日増しに強くなる想いが病を悪化させ、遂にベッドから起き上がれなくなってしまったのだ。
痛みに悶えながら寒さに震える日々が続き、常に意識が朦朧とするようになった。
それなのに、何故か先輩との記憶だけは色鮮やかに浮かんできて胸を締め付ける。
もう逢うことも、唯一の居場所だった裏庭へ行くことも、出来ないのだろうか。
「せん、ぱ..い..?な、んで..」
「勝手に入ってごめん。学校に来てないって聞いて、倒れてるんじゃないかと思って..」
「それ、で..わ、ざ..わざ..?」
「..うん。どうしても心配で..」
滅多に鳴ることのないインターホンが不意に忙しなく鳴り響いた後、すぐに鍵を掛け忘れていたドアがガチャリと音を立てて開く。
恐怖を感じながらも横目で玄関の方を確認すると、そこには息を切らした光希先輩が立っていた。
運動は苦手だと言っていたのに、此処まで走って来てくれたのだろうか。
僕の掠れた小さな声に反応してベッドの前まで駆け寄ってきた先輩は、真っ赤な顔をして汗を滴らせながら眉を寄せた。
「..そ、んな..顔..しな、い..で..くだ、さい..大丈、夫..で、す..から..」
「っ大丈夫じゃないよ..!」
大きな声を出す先輩を見たことがなくて、何も言えなくなってしまった。
怒らせてしまった訳ではないということは、溢れ落ちる涙を見れば分かる。
どうしてそこまでしてくれるの、そう聞けばきっと先輩は後輩だからと答えるのだろう。
それ以上でも以下でもないこの関係が、壊されることはないのだ。
「..大声出してごめん。」
「ひと、つ..お願い..が..ある..です、けど..」
「うん?良いよ、何でも言って。」
「..ちょっと..だけ、手..握ってて..くれ、ません..か..?」
僅かに頭を下げて強く目元を擦る姿に声を掛けると、真っ赤な目がゆるりと此方に向けられる。
そして僕の言葉に少し微笑んでコクリと頷き、耳を傾けるようにしてしゃがみ込んだ。
哀れな病人の戯れ言だと思ってくれて構わない、ただ先輩に触れて欲しかった。
「あった、かい..で、すね..」
「..そっか。良かった..」
「..ん、ぅ..」
「疲れちゃったよね。寝ちゃって良いよ。」
氷に覆われた僕の手を先輩は何の躊躇いもなく大切そうに両手で包み、冷たいはずなのにずっと離さず握ってくれている。
あのゴツゴツとした大きな手の感触はもう分からなくなってしまったけれど、久しぶりに感じた温もりにひどく安心した。
暫くして体温が上がり震えが治まると、急激な眠気に襲われ瞼が重くなっていく。
眠りに落ちる寸前、おやすみと囁く声が微かに聞こえて小さく頬を緩ませた。
それから先輩は僕の様子を確認する為に毎日学校が終わると、園芸部で育てていた花を持って家を訪れてくるようになった。
花瓶に生けてくれた花がほんのりと香る度に、裏庭に居るような錯覚に陥る。
逢えば逢うほど想いが強くなり進行が早まっていくのは分かっていたけれど、先輩の傍に居られるのならそれでも良かった。
彼女さんのところへ行かないで、お願い僕を愛してーー。
「う、ぐ..っかは..」
「綴くん..!」
「..はッ..はぁ..」
「温まれ、温まれ、温まれ..っ」
空気を入れすぎた風船が弾けるように恋心が破裂し、病が一気に悪化し始めた。
胸の辺りから顔にかけて激痛が襲い、ピキピキと音を立てながら氷に覆われていく。
身を捩ることも出来ないまま呻き声を漏らす姿を見て焦燥した先輩は、僕をきつく抱き締め必死に温めようとしてくれている。
いつもならすぐに落ち着くのに、今日は全く症状が治まりそうにない。
理由は考えなくても、分かっていた。
「せん、ぱい..も、う..良い、です..」
「..え?」
「..終、わり..で、す..から..」
「そんなこと言うな..っ」
ほとんど吐息のような声を絞り出し、取り乱す先輩を制止する。
すると戸惑った様子で、僅かに腕が緩められた。
どんなに縋ったって奇跡など起きないのだから、悠然と最期を告げるしかなかったのだ。
こんなことになってしまったけれど、先輩を好きになった事実に後悔はしていない。
死を間近にして、僕は不思議と安らかな気持ちになっていた。
「泣、か..ない..で..くだ..さ、い..」
「..綴、くん..」
「伝え..た、い..こと..が..あ、るん..です..」
「..っ、なに..?」
ぽつりぽつりと僕の頬を濡らす先輩の涙が、徐々に勢いを増していく。
想いは最期まで胸に秘めておこうと思っていた。
けれどこのまま知られずに死んでしまったら、この恋心が初めから無かったことになってしまいそうで哀しかった。
いつか忘れられてしまうのは分かっている。
それでも聞いて欲しい、これが今の僕の全てだから。
消えゆく意識の中、微かに笑ってみせた。
「..ぼ、く..み、つき..せん、ぱ..い..の、こと..が..ずっ、と..」
ーーー好きでした。
心臓が凍り付いていくのを感じながら、そっと瞼を下ろした。
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