さよなら、初恋。

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話したいことがあるから会えないか、そう連絡があったのは月曜日の昼過ぎのこと。 週始めのこんな時間に連絡してくるなんて珍しく、何があったのか心配になりつつも、深刻そうな声でもなかった為、十九時に行きつけの居酒屋で待ち合わせることにした。 約束をしてから自然と仕事をするペースが上がる。 早く逢いたいな、この時の俺は何も知らず暢気にそんなことを考えていた。 店内に入ると直哉は既に座っており、此方に気付くと手を振ってくる。 それに小さく手を上げ反応しながら席に近付き、俺は正面の椅子に腰掛けた。 それとほぼ同時に店員を呼び、直哉がお決まりのメニューを注文していく。 スーツ姿はいつ見ても似合っていて、いつまでも眺めていられそうだ。 彼女からのプレゼントらしい、趣味の悪いネクタイはどうにかした方が良いと思うけれど。 「お疲れ!」 「ん、お疲れ。」 ビールが来ると控えめな音で乾杯をし、冷えた液体に喉を鳴らす。 美味しそうに、嬉しそうに、呑む直哉を見るのが好きだ。 些細な仕草ひとつ、愛おしくてたまらない。 もう十年とちょっと一緒に居るのに、好きなところは増えるばかりで困ってしまう。 暫く他愛のない話に花を咲かせながら、酒を呑んだり料理をつまんだりする。 今日呼び出された理由など、すっかり忘れてしまうくらいには盛り上がっていた。 「俺、結婚することにしたんだ。」 話が一段落し、ふと会話が途切れた瞬間のこと。 タイミングを見計らっていたように、直哉が口を開く。 明るく弾んだ声は聞こえても、何を言われているのか理解できない。 いや、本当は理解したくないだけだ。 今までギリギリ保たれていた心が、粉々に砕ける音が聞こえた。 頭が真っ白になり、さーっと血の気が引いていく。 笑わなきゃ、そう思うのに頬が引き攣ってしまう。 「昨日プロポーズしたんだ。」 「..そ、うなんだ。おめでとう。」 「一番に歩夢に報告したかったから、今日会えて良かったよ。」 振り絞るように発した心にもない祝福の言葉が、どうしようもなく弱く響く。 それに全く気付かない直哉が、照れくさそうに笑う。 珍しく同じ子と長く付き合っていると感じてはいたけれど、まさか結婚するなんて考えもしなかった。 またいつものように、そのうち別れると思っていたのに。 「..ごめん、ちょっとトイレ。」 話を遮るように震える脚で立ち上がると、よろめきそうになりながら席を離れる。 店内は人が多く賑わっているはずなのに、話し声も音楽も遠く聞こえ、独りぼっちになってしまったような感覚に陥った。 だんだんと呼吸の仕方も分からなくなっていく。 「っ、ん..ッぅ..」 どうにか御手洗いに辿り着くと、便器に突っ伏して嗚咽を漏らす。 結婚、という言葉が頭の中をぐるぐると廻り息が苦しい。 早く戻らないといけないのに、涙まで溢れ出てくる。 助けて、と報われない想いに救いを求めても神様なんていない。 「あれ、顔色悪くない?呑みすぎた?」 「..そう、かも。」 「珍しいな。そろそろ帰るか。」 やっとの思いで席に戻ると、直哉が心配そうに顔を覗き込んでくる。 普段は鈍感なくせに、こういうことだけはよく気付くのだ。 本当はちっとも酔ってなんかいないけれど、それを否定できずに曖昧に頷く。 少し驚いた表情をすると店員を呼びながら直哉は立ち上がり、俺が財布を出す間もなくさっと会計を済ませてしまう。 今日は奢りな、そう言ってご機嫌に笑いながら。
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