プロローグ

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プロローグ

 出会いとは、いつも突然やってくる。  そのとき俺は写植指定に没頭し、完全に自分の世界へと入り込んでいた。  写植指定とは、漫画原稿の台詞部分のサイズや行間、書体等を決める作業のことを言う。原稿が一番映えるバランスの文字サイズや行間を見極め、数多くある書体の中からその状況にふさわしく、また登場人物の心情に合わせたものを選定しなければならない。  もちろん、誤字・脱字なんてもってのほかであり、なかなか集中力を要される作業なのだ。  写植といえば、台詞の書かれた紙を原稿に直接ぺたぺたと貼っていく光景を思い浮かべる人も多いかもしれないが、近年はデジタル化に伴いコンピューター組版が主流となっている。なので、俺たちがやっているのはあくまで写植〝指定〟ということだ。  外線電話の甲高いコール音で現実へ呼び戻されると、反射的に受話器を手に取り、やはり反射的にいつもより一オクターブ高い声を出す。 「はい、秀英館『週刊少年ギャング』編集部です」  今までに何度この言葉を口にしてきただろう。 『おっ……お忙しいところ失礼いたします。持ち込みをさせていただきたいのですが……』  そして、今までに何度この言葉を耳にしてきただろう。  もう一度言う。  出会いとは、いつも突然やってくる。  ましてや漫画雑誌の編集部なんてところで仕事をしていると、人との出会いは日常茶飯事といっても過言ではない。漫画やアニメ、ゲームをはじめとするサブカルチャーに特化したこの日本には、当然ながら漫画家の数も、そして漫画家を夢に見る者の数も計り知れないのだ。クールジャパンとはよく言ったものである。 「持ち込みですね。お名前と年齢をお願いします」 『西門た……じゃない、西門薫です。年は二十です』  どこか少年の名残のあるやや高めの声は、受話器越しでも非常に聞き取りやすかった。  それにしても、えらく格好良い名前である。稀に電話をかけてくる段階からペンネームを名乗る強者もいるので、本名かどうかは判断しかねるが。 「西門薫さん、ですね。希望している日時はありますか?」 『いつでも大丈夫です!』 「あ、そうですか? じゃあ」  そう言って、雑に予定が書き込まれた手帳と卓上カレンダーを交互に見やりながら、都合の良い日を探していく。 「二日後、四月六日の十五時はどうでしょうか」 『大丈夫です!』  即答である。 「では当日、秀英館本社の受付で、予約の時間とギャング編集部に用があるという旨、あとは私の名前をお伝え下さい。逢坂といいます」 「逢坂さん……分かりました!」 「それではお待ちしてますね」 「はい、ありがとうございます! 失礼いたします!」  受話器を置き、追加された予定をカレンダーに記入していると、後ろのデスクの小野寺がにやにやと口角を上げながら「持ち込み?」と声をかけてきた。 「ああ、六日の十五時」 「ええっ、マジ?」 「んだよ、気持ちわりぃな」  明るくお調子者の小野寺は編集部随一のトラブルメーカーで、ここでなにかしら事件が起こる際は高確率でこいつが関わってくる。俺とは同期入社という間柄でもあり、会話をする際は語尾が雑になるのが常であった。 「俺も今日、同じ日の同じ時間に持ち込みの予定が入ったんだよね。おどおどしてて、大人しそうな感じだったな。年は二十三。そっちは?」 「……ハタチ。なかなか爽やかな感じだった。言葉遣いも丁寧だし、明るそうだったし。まずまずの印象」 「ふーん。まあ、電話の印象なんてあんまりあてにならないんだけどね。この世界に来る人間って、変なヤツが多いし」 「……」  だったら聞くなよ、と心の中で突っ込みを入れ、俺は中断していた写植指定を再開させた。  小野寺の言う通り、漫画を描く人間というのは何故だか変わった者が多い。コミュニケーション能力が異常なまでに欠落している者、凡人には理解しかねる突飛な言動が目立つ者、漫画を描くこと以外にはなにも関心を示さない者等々。  この仕事に就いたばかりの頃は、そんな奇人変人と接することに対し頭を抱えることも多かったが、慣れとは恐ろしいもので。今ではすっかり「人柄くらい大目に見るから、少しでも見込みのある人間が来てくれたらいい」と、大らかな気持ちで待ち構えることができるように成長していた。  なので、このときの俺も例に漏れず、悠長にそう願っていたわけだが……。  結論から言ってしまうと、西門薫はまさに俺の願いに応えてくれる逸材であった。  ヤツは漫画家としてある重要な一点を除いては、これ以上ないほどの才能を持ち合わせていたのである。その手で生み出される漫画は、手に取り、読む人々を瞬く間に夢中にさせた。  ……ただ、人間というのはそう完璧ではない。  ヤツはその才能と引き替えにしてしまったのか、人間性に大きな欠陥があったのだ。後にも先にも、あれだけ俺の事を怒らせ、戸惑わせ、振り回し――しかし、それと同じくらい興奮 をも与えてくれたのは、西門薫という人間だけだろう。  これから、そんな西門薫と俺が漫画に全てを捧げた日々について振り返るわけだが、やはりこの濃密すぎる物語を語るには、あの衝撃的な出会いまで遡らなければならないだろう。  まるで春の幻のように俺の目の前に現れた、あの出会いの日まで。
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