花ひらく

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花ひらく

 孤独死老人の発見された半壊状態の家は,延々と築地塀ののびる大邸宅になりかわっていた。  南面する横長の広大な正殿を中央にして,吹き放ちの渡り廊下で結ばれる別棟の建物が東・北東・北・北西・西にそそりたっている。桜木の群れる庭には,細長い殿舎の臨む泉水が設けられ,水中の島々や,島と庭とを繫ぐ反橋や平橋の彫刻に露がおりていた。  物の本に描いてあった。これは寝殿造りという貴族の住宅様式だ。ならば,この邸宅に平安の盗賊貴族 藤原(ふじわらの)保輔(やすすけ)が居住しているのだ。  保輔は現代に転生し,人助けとなる仕事に従事することで,かつて失った腸の奪還を目指している。俺は彼に仕事を斡旋するマネージャーとして働く契約書にサインした。  保輔が町はずれのこの場所で暮らしていると知ったとき,廃屋に身を縮める大男を想像し,うちに来ないか――などと要らぬ世話を焼いたことが今更ながら恥ずかしい。廃屋を解体し,豪奢を尽くした邸宅を構え,遊興に耽る色欲魔が心底腹だたしい。彼ときたら,人が日雇い労働の合間に苦労して見つけた仕事を一笑に付して反故にしてしまう――なるほど,働かずとも豪邸を建てられるほどの財力をもてあましているというわけだったのか。しかし金のためでなく完全体(かんぜんたい)奪還のための仕事なら,選り好みせずに数をこなせばよいではないか。結局彼は意に染まぬ労働を避けているお貴族さまなのだ。  けたたましい咆哮が耳孔を貫いた。東側の四つ足門で,金色の毛を逆だてて巨大な犬が猛り狂っている。  築地塀を飛びおりて犬に駆けよる。「コガネ,落ちついて――」長い毛足をひっぱって抱きよせる。  コガネが顔を寄せ,静かになった。 「兄の使う式神犬が見えるのですか?」  再び女にむかって激しく吠えるコガネを捻じ伏せる。低い声の漏れる鼻先を股に挟みながら女を見た。  息をのんだ――  腰まで達する癖のない黒髪と,透きとおる雪の肌,異国情趣漂う瞳は時折色をかえながら魔物めいた雰囲気を湛え,両口端間隔の十分な真紅の唇は凛とひきしまっているくせに笑いをこらえているように今にも弾けそうだ。「愛湖(あいこ)なのか」 「私の名をどうして?」  桜色のワンピースにプロポーションラインのうつる八頭身美人に又しても脳天がぶちぬかれた…… 「そうです,愛子(あいこ)です」女にしては低めの囁くような調子の声。「兄から聞きまして?」 「……彼の……保輔の妹さん……」 「あなたにも保輔と名乗っているのですね。兄は昔からなのです――自分が平安時代で悪行を極めた藤原保輔の生まれかわりだと信じている。不思議な力を使えることが仇になったみたい」 「そうなの,保輔の妹さん……」 「保輔でなく威祉輝(いちき)です。屠羽房(とうぼう)威祉輝――御存じでしょう? 反社会的組織の屠羽房組です」顎をひいて上目遣いで眉を顰める。恥じらっているのか怒っているのか分からない。そんな仕草までそっくりだ。  無意識のうちに彼女を抱きしめていた。平手打ちを食らう。 「ヤクザの娘だからって甘く見ないで!」 「違うんだ,愛湖に――」 「呼び捨てはやめて。馴れなれしいわ」  気の強いのも同じだ。本当によく似ている。だが,彼女は愛湖ではないのだ。愛湖はもう死んだのに,こんなにも瓜二つな人間が存在するとは残酷だ。 「……ごめん……いや,申し訳ありません」頭をさげる。涙まじりの自分の声に気づき,混乱が増していく。 「あの,あなた?……大丈夫ですか? 顔をあげてください。そんなに痛くぶちました?」  崩れおちて不覚にも嗚咽を漏らした。 「ええ……どうしよう……大丈夫?……」彼女が接近する。バラの香りが乾いた鼻孔をくすぐり,工事現場の重労働でやられた肩に柔らかな手が触れた。「ごめんなさい。私,ひどいことをしちゃったみたい……」 「また殴られてもいい……」 「ええ?……」 「見つめてもいいかな……」目を閉じたまま上半身を起こした。「死んだ恋人の愛湖に似てるんだ。1分――30秒でいい! 見つめていいですか……」  ねっとり絡まって自堕落に誘うような甘い匂いが彼女の香りを圧殺した。嗅ぎなれた(こう)の匂いだ。 「我が世の春か――花ひらくるありさまのごとにて」睫毛の奥にある楕円の両眼を細めつつ膝で腕を支え頰杖をついている。「いと(ねた)けくは,かように惚けたそなたを見ること――あな憎の浮気(あから)(ぎみ)よ」
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