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「あなたは――五月女朋子さんは、認知症を患う夫のことが心配だった。いつもあの桜並木で通行人に激昂してしまう夫のことが心配だった」
「私はあの葉桜を見て素敵だと思ったから依頼したのよ」
「いいえ。あなたは直接あの場所に行っていません――あなたは私に依頼するとき、あそこらへんは放置自転車が多いからそれは描かないように、と言いました。私は毎日のように通いましたが、自転車は一度も置いてありませんでした。どういうことでしょうか? あなたは散歩から帰ってきた達也さんの言葉を、達也さんの過去の思い出を、そのまま私に流していたんです。更に言えば放置自転車を描いて欲しくなかったのは、その絵を達也さんがみたら怒ると思ったからです」
相坂の拳は膝の上で固く握られている。
朋子は目を下に逸らした。
「牽強付会ね」朋子は紅茶をひと口飲む。「と言いたいところだけれど……主人は偏屈で妙に正義感だけ強くてね。介護じみたことをすると嫌がるの」
「……朋子さん自身が付き添わなかった理由はそれですか。もうひとつ訊きたいことがあります。どうして私だったのか。私の名前は達也さんみたいに新聞に載ったことなんか一度もないのに」
「見たことがあったの」
「なにをです?」
「あなたが、スーパーの前で倒れた車椅子を助けているところ。あなたならきっと優しいから、もし夫がなにかあっても――見過ごさないんじゃないかと思ったの。だからあなたに監視役をお願いした」
相坂は黙った。
「ごめんなさい。騙すつもりはなかったの。でも監視のことを夫に知れたらと思うとそれも嫌だったから」
「そうでしたか」
相坂はそう言って天井を仰ぎ見る。息を大きく吐いた。くすんだ茶色の染みがいくつも浮かんでいた。
「でもこの絵を綺麗だと思ったのは本当よ……綺麗に本当に綺麗に、花が咲いているわ」
「気に入って頂ければ絵描き冥利に尽きますよ」言いながら相坂が腰を上げる。
「あ、ちょっと、お金」
「いらないです。だって私の絵に対しての依頼じゃなかったんですから」
「気分を害したのなら謝るわ。本当にごめんなさい」
「朋子さんには感謝してます……皮肉じゃなくて本心です。だって私の芸術家としての心がまだあることを教えてくれたんですから」
「せめてお金だけは受け取って」
「ある私の顔見知り曰く」相坂は玄関で振り返って言う。「芸術と金銭は関係のないものだそうです。私は売れてませんから毎回そういうわけにはいきませんけど、今回はなにも頂きません。もし私の絵が気に入って頂けたのなら――またのご注文をお待ちしております」
それじゃあ、と相坂は外に出る。
頭上にはひと雨降りそうな梅雨の気配があった。
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