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五月の桜
「面白いかと思ったんだがな」西倉がカンバスをのぞき込みながら言った。「見ててもただ退屈なだけだ」
「べつに西倉さんを楽しませるために描いているわけじゃないですからね」相坂が筆をトントンとカンバスに置いていく。華奢な指が次の動きに迷って止まる。止まっては動き出す。その繰り返し。
「ピアノだと速弾きってあるだろうが」
「ありますね」
「絵も速描き出来ないのか?」
「その手法がわかったら是非教えてください」
「俺は絵描きじゃない」
「なんせ驚きの無職ですもんね」
集合住宅地のそばにある桜並木。その中にふたりはいた。平行して流れる小川のせせらぎがBGMのように流れている。湿気を含んだ風がひとつ括りにした相坂の髪を揺らした。相坂は少しだけ腰をあげて折りたたみ式のイスに座り直す。
「そもそもだ。モデルが葉桜ってのもどうなんだ。全然咲いてねえじゃねえか」
「五月の桜ですから」
「そういうことじゃない」
「じゃあなんです?」
「どうして葉桜なんかを描いているのかってことだ」
「表現の自由ですよ。満開を描かなきゃ罰金なんて聞いたことないですし」
「それはもっともだ。だが、葉桜をあえて描く芸術的理由があるなら興味がある」
そんなものはない、と相坂は思った。絵描きの全員が芸術性を希求していると考えているのならそれは西倉の大きな勘違いだ。
相坂はまたひとつ色を添える。
カンバスの半分程度は色で埋まっているが、中央はまるでそこだけショベルカーで削ったかのように真っ白だった。
歳を重ねるごとに失われつつある絵への情熱的ななにかが、一体あとどれだけ残っているだろう、と相坂は思わずにいられない。
「西倉さん。もったいないんで、もういいですか」
「なにがもったいないんだ」
「時間ですよ」
「時間?」西倉は時間ならいくらでもあるだろうというような顔をする。
「これ、今日までに描かなきゃいけないんですよ」
厳密には今日までに大方を描き終え、あとは細かい仕上げに入る予定だった。
「締め切りがあるのか」
「依頼されて描いてますからね」
近所のおばさんからの、とは相坂は言わなかった。馬鹿にされるのが見えている。
「依頼か。じゃあ芸術じゃないな」
「仕事で描く絵は芸術じゃないんですか?」
「芸術と金銭は関係ないものだ」
「はあ」
西倉はゴッホの絵が数十億することを知らないのだろうかと相坂は疑問に思う。
「お前はなにもわかってない……絵描きのくせになにもわかってない。ああ、絵を描くって言うから見に来たのに。なんか冷めた。ほかに面白いことないのか?」
「あったらいいですね。時間潰しに忙しい西倉さん」
「そうだ。あの桜を咲かせてみろよ」
「締め切りが一年くらいあればできますよ」
「相坂」
「なんです?」
「そのジョークは面白くない」
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