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老人、怒る
相坂は小さな川とは反対側の広い歩道の方を見た。声が聞こえた気がしたのだ。
「おいなんだよあのじいさん」西倉が相坂と同じ方を見る。「なに怒ってんだ?」
ふたりの視線の先では自転車に乗った老人男性が女子高生の背中に罵声を浴びせていた。七十歳は超えているように見える。
「あのおじいさん、いつもいるんですよ」
「無職なのか?」
「定年までしっかり働いてたらしいです。西倉さんと違って」
「なに者なんだ」
「さあ。いつもああやって誰かに怒ってます」
「怒りの化身か……あれだな、シヴァ神だ」
「シヴァは破壊じゃなかったでしたっけ? ともかく、あのおじいさんはちょっとあれらしいですよ。定年後にがくんと無気力になっちゃったみたいで。認知症も進んで来てるって」
「あのじいさんが言ってたのか」
「まさか。私、最近いつもここで描いているんで、散歩するおばさま方が教えてくれたんです」
「どいつもこいつも暇人ばかりだ」
老人は次に歩いてきたスーツ姿の若者に声をかける。若者はイヤホンを外すが、結局足早に立ち去った。老人はまたもやその背中に叫ぶが振り返ることはない。
「また無視されてますね」
「なに話しかけてるんだ?」
「さあ」
「気にならないか」
「なりませんね」
「寂しいやつだな」
「私って感情の起伏がないタイプなんで」
「元来人間は腹が立つものなんだよ。赤ん坊だって泣くし中学生だって教師に怒りをぶちまける。だけど大人になると我慢して、いつの間にか怒ることを忘れちまうんだな。もっとも、記憶力のいい俺は忘れたりしないが」
「忘れたならなんであのおじいさんは怒ってるんですかね」
「思い出したんだろ。年の功だ」
「無茶苦茶ですね」
「にしてもなにに対して怒っているのか」
「………はあ。そんなに気になるなら聞いてきたらどうですか? 直接インタビューですよ」
「その手があったか」
西倉は短くそう言って、自分の出番が回ってきたモデルのように、葉桜のランウェイを歩いて行く。
「え? ちょっと、西倉さん? 本当に行っちゃうんですか?」
言いながら相坂はちょうど西倉とのあいだを通り過ぎる車椅子に目を奪われた。乗っているのは青年で、慣れた手つきで両輪をまわしている。
その車椅子がふいにぐらついた。
「――あ」
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