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車椅子の青年
アルミ缶を踏み潰すような音がした。
それは車椅子が倒れて、青年が地面に放り出された音だった。西倉が首だけ振り返って、すぐに踵を返す。青年の横に膝をついた。
「立てるか?」
地面に視線を這わせると蛇を何匹も絡ませたような根っこが隆起している。これに躓いたのだろう、と西倉は思った。
「ちょっと無理みたいです。すみませんがお願いできますか?」
西倉は青年の脇から背中に手を伸ばし抱えるようにする。「上げるぞ」と声を掛けながら、駆け寄った相坂に「車椅子を抑えててくれ」と指示した。
青年を車椅子に戻す。相坂には青年の戻ってきた車椅子が活き活きしているように見えた。
「西倉さんいい人だったんですね」
「知らなかったか? ウィキペディアに載ってるぞ」
「実家の百科事典には書いてなかったもんで」
「それは古本屋に売った方がいい」
青年が妙な会話をするふたりの顔を交互に見上げる。「あの、ありがとうございました」
「怪我がなくてよかったな」
「ええ。近くに人がいてくれてよかったです……」と、青年の視線が相坂の顔でぴたりと止まった。「ああ、あなたは。二回目ですよね、助けてもらったの」
「え?」と相坂。
「以前、僕がスーパーを出たところで買い物カートとぶつかってこけたときに」
「ああ……そういえば。そんなことも、あったような」
「案外いいやつだったんだな」西倉が反撃するが、
「百科事典に追記しておいてください」と流される。
仲が良いんですね、と青年は屈託のない笑顔をした。
「それより西倉さん。もうおじいさんの方はいいんですか?」
「おじいさん?」西倉は歩道を見る。老人の姿はなくなっていた。小さく舌打ちする。
「随分な記憶力で」相坂が茶化すと、西倉は青年に向き直った。
「そうだ青年」
「柏木です」
「俺は西倉だ。こっちは相坂。それで、柏木。あのじいさんがなぜ怒っているか知らないか?」
「あのじいさん?」
「ほら、あのいつも怒鳴ってる人いるじゃないですか」と相坂。
「ああ……五月女さんのことですね」
「さおとめ?」と西倉が顎に手をやる。相坂は無言で、しかし、眉をぴくりと反応させた。
「ええ。五月女さん。五月に女の三文字で五月女さん。教師だったんです」
「五月女……もしかして五月女はボランティア活動とかしてなかったか?」
「よくご存じですね。もうお年を召されておそらく活動されてないとは思いますが」
「西倉さん、どうして知ってるんですか?」
「以前――と言っても随分前だったと思うが、新聞の地方欄で見たんだ。五月女って名前を。そのときは確か冬で、五月でもなければ女でもない、と思った記憶がある」
「西倉さんらしい」相坂はあきれた。
「だが今は五月だ」
「だからなんです?」
「これはきっと理由がある」
「そうですね。地球は太陽を周回してますから。季節は巡るし月日は流れます。先月は四月で、次は六月です」
「女、という文字も伏線かもしれない」
「それはない」と相坂は断言した。
これ、なんです? と言わんばかりに柏木が首を捻って、私も迷惑しているんですと相坂はアイコンタクトを返した。
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