車椅子の青年

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「それで柏木、五月女が怒っている理由に心当たりはないのか」 「残念ながら。ですが」 「ですが?」 「とくに理由があるとも思えません。ご老体ですから、その、ご病気などもあるのでしょう」  あからさまに顔をしかめる西倉。 「ふん。理由のない怒りなどあるものか。犬だってミカヅキモだって腹を立てるには動機がある」 「つい最近、上司にキレて市役所をやめたひともいますしね」 「あいつは最低だった。人間のクズだ」  柏木が苦笑する。「そうですね、もしかしたら理由があるのかもしれませ ん」 「柏木さん。これは西倉さんの思いつき――暇つぶしなんですから、合わせなくてもいいんですよ」 「いや、思い出したんですが、確かに五月女さんは正義感の強いひとだったんです」  正義感? と相坂が零す。 「ええ正義感です」 「そういえば俺が読んだ記事も放置自転車をなくす運動のものだった。その活動のリーダーを務めていたのがあの五月女氏だったんだと。そうだ、記事には確かこう書いてあった――『自転車が怒っている。彼らは放置するものではなく、乗ってこそ価値のあるものだ』」  相坂は首を傾げた。「詩的なような、そうでないような」 「詩的でもなんでもいい。とにかく五月女は小さな事が見過ごせない正義感の強いタイプだった」 「そうです」と柏木。「実はこの場所も数年前までは放置自転車がたくさんあったんです。僕は車椅子ですから随分迷惑してました。避けるのが大変なんですよ」  相坂は絵の依頼主にもこの辺りは放置自転車が多いと聞いていたことを思い出した。それを絵に入れないようにとも。しかし自転車なんて見あたらない。 「五月女の活動が功を奏したってことか」 「ですね。放置自転車の一件で車椅子の僕は五月女さんのことをよく知っていたわけです。そんな五月女さんが怒っているんだとしたら、きっと正義感によるものなんでしょう」 「正義感による怒りか。いいじゃないか。かっこいいじゃないか」と西倉はしきりに頷いて満足そうにする。 「そうですかね」と相坂。 「正義による怒りでボランティア。金銭にならない行動だ。どこかの自称芸術家よりよっぽど心がリッチだ」  相坂は肩をすくめるばかりで少しも怒らない。 「人格者でしたね五月女さんは……ああ、もうこんな時間だ。僕はそろそろ行かないと」  相坂は車椅子の両輪を見て、それから周囲の地面を見渡した。確かにここは散歩コースとしてはこれほどないくらいに気持ちいいが、車椅子の人にとっては地雷を踏まないように進むようなものだ。 「押していきますよ」 「いえ、それには及びません」 「でも……」 「やめとけ。必要ないと言っている」 「やっぱり優しくないですね」 「俺は特別扱いってのが嫌いなんだ。自分でできることは自分でやったほうがいい。違うか?」  柏木は驚いた顔をする。「そうですね。自分でできるって嬉しいですから。手伝ってくれるのはありがたいですけど」  相坂は渋々わかりましたと身を引いた。  そうして転ばないようにゆっくり進む車椅子の車輪がガタガタと回るのをふたりは見送った。
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