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依頼の理由
「なによこれ」
「なにってご依頼の桜の絵ですが」
「咲いてるじゃない、この桜。こんなに満開で。……ねえ相坂さん。あの桜並木の桜を描いてって頼んだのよ。まさかあそこで描かなかったの?」
「いえ、あの場所で描きましたよ」
「――? じゃあどうして花がひらいているの? 葉桜でしょ、今の時期は」
「私は間違いなく描きました……あなたの夫である五月女達也さんのサイクリングコースの、あの桜並木で」
「…………」
あれから数日後。
相坂は完成した桜の絵を依頼主の女性――五月女朋子に届けに来ていた。相坂から見ればお客さんの部屋にあたるその室内はすっきりしていて、不必要な調度品はほとんどなかった。
ふたりの間のテーブルでは琥珀色の紅茶が湯気を立てている。
相坂はそのダージリンに手を出さず、一人がけのソファで背筋を伸ばして口を開いた。
「私もなぜ葉桜を、と思っていました」
「私も?」
「私の――友人。いえ、顔見知りが言ってたんですよ。『モデルが葉桜ってのもどうなんだ。全然咲いてねえじゃねえか』って」
「……それが?」
「腑に落ちないところは他にもありました。例えば」相坂は部屋の中をぐるりと見渡す。「ここには一切絵画なんて飾られていません。ほかの芸術品の類も」
「だからなんなのよ。別の部屋に飾ってあるかもしれないじゃない。それとも気まぐれであなたに注文したのかもしれない」
「無名でアルバイトしながら食いつないでいる私に? ありえないですよ。私は随分久しぶりに腹が立ちました。そして――腹が立ったことに安心しました」
「……話が見えないわ」
「絵のことだったら怒れるんだって。私の中の芸術家の心が――とある人の言葉を借りれば、芸術的理由が素人ながらに、燃え盛っているんだって。それは細い蝋燭かもしれませんけど」
「……」
相坂は深呼吸をする。
そして朋子の目をじっと見据えて口を開いた。
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