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バチバチ前の序章
「姉さん! 姉さん――」
救急車が来るまであと時間はどれ程か。絶望的に思えるほどの、街から遠い森の中。
弟の手の中で灯すされた退魔の札の明かりの下で、大きく広がった血だまりの上で、ぐったりと姉は横たわっている。
あれは月明かりのない、悪夢のような夜だった。
清潔に掃除の手が行き届いた洗面所。洗面台に飾られているライトに反射し濡れ光る白い蛇口レバーに触れるのは、細く華奢な白い少女の手。
その手の主は手桶で蛇口から出てくる水をすくい、自分の顔を洗う。それを何度か繰り返した後水を止め、少女、阿山狩千流(あやまかり ちる)は濡れた自分の顔をタオルで拭う。
「あら。高校生」
洗面所のドアが開くなり、涼やかな声が千流の耳に飛び込んでくる。肩の上で切り揃えられた髪を薄い茶髪に染めた大学生の姉が、優しく笑微笑みかけた。
「よく似合ってるわ、制服」
「そ……そう?」
姉、千幸(ちゆき)に褒められたことで、着なれない制服姿で千流はぎこちない笑顔だが、まんざらでもない様子だ。
「ええ。だけど、スカートの丈短くないかしら」
「……こんなもんよ。じゃないと、浮いちゃうしね」
「そう。……行くときは、気をつけて。怪我のないようにね」
「……うん」
複雑な気持ちを隠しながら頷くと、千幸は変わらず穏やかな様子で洗面所の扉の前から遠ざかる。
あの悪夢の日から、姉は外出する家族を送り出すとき、必ず「気をつけて。怪我のないように」と口にするようになった。
自分のようにはならないようにと願う千幸の優しさを思うと、心が締め付けられる。
あの悪夢で変わってしまった自分の身体を、千幸は今どう思っているのだろうと少し考えかけて、今はそんな暇はないとすぐに思い出して思考を振り払う。
とにかく学校に行かなければ。腰まで長い黒髪をうなじからすくいあげてせっせとポニーテールを作ると、洗面所を出て日本庭園の庭を横に通りすぎて自分の部屋に戻り、通学カバンを片手に玄関に向かう。
「行ってきます」
歴史の積み重ねを感じられる広い日本屋敷から、千流は新しい革靴で外の世界へと踏み込んだ。
千流は今日から高校生――通う学校は男女共学の南実先(みなみさき)高等学校。
初めて入る高校の教室に入り、緊張ぎみに同じクラスになった者同士で話す生徒たちに目を配る。皆、見慣れない者たちばかりだ。同じ中学の顔見知りはこのクラスにはいないらしい。
特に誰かと話すことなく、千流はスマホを取り出しサイトを開いた。
(先週からしばらく依頼のメールはなし――か。ま、歯応えのない仕事をしたってね……)
スマホをしまい、登校時間が終わるまで読書をして過ごす。チャイムが鳴って入ってきた初対面の担任の指示に従い、新一年生たちの列に混ざって、千流は吹奏楽部部員たちの奏でる音楽と共に体育館に入場する。
「……?」
歩を進めながらポニーテールを艶やかに揺らし、千流は瞳だけを横に動かした。
妙な気配だ。明らかに人ではない者の気配に興味を引かれた――が。
どこにいるか姿は特定できないまま、千流は歩を止められないまま壇上から一番近い前の席に座るしかなかった。
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