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This letter, for you.
この季節の朝は寒くて、早く暖房をつけてくれないかと思いながら、書架整理を行う。図書館に勤める私の手は、本の紙に油分を吸い取られ、少しばかり荒れ気味であった。そんなかさついた手をせっせと動かし、本を綺麗に並べていると、やがて低く唸るヒーターの音が聞こえてきた。
九時の開館と同時に、多くの利用者さんが図書館に入ってきた。今日は土曜日なので、平日より来館者数が増える。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよー」
私が笑顔で挨拶をすると、利用者さんからも挨拶が返ってきた。毎日通ってくる方も多く、自然顔見知りになる。
「あ、おはようございます」
「おはよう、加賀さん」
青いマフラーに顔を埋めた彼も、常連さんの一人。私の名前が「加賀」だということも、つけている名札で知っているようだった。
もちろん、私も彼の名前を利用者カードで知っている。七海さんだったはずだ。
高校生だろうか、いつも土日は朝一で来館して、閲覧者席で勉強をしたり、本を読んでいたりする。彼の定位置は窓から一番離れた、右隅の席だった。ヒーターから最も遠い席なのに、どうしてかそこに座って、辞書とノートを広げている姿は、なんとなく印象的なものがあった。
彼が筆記用具を出しているのを横目で見ながら、私は返却された本を書架にしまう配架作業を始めた。番号順に並べるのだが、これがなかなかに大変で。重い本を抱えて館内を歩き回るのは、結構な重労働なのだ。
「あっ……!」
閲覧者席の横を通りかかったとき、欲張って大量に抱えた本のうち、一冊を落としてしまった。飴色のリノリウムの床に落ちる前に、大きな手が差し出されて、その本を受け止めた。
「ドジだね、加賀さんは」
「……ありがとうございます。助かりました」
大きな手の持ち主は七海さんだった。からかい混じりの笑いに恥ずかしくなる。図書館員として、もっとしっかりしないと。
本を渡されたとき、窓の外からびゅうっと風が鳴るのが聞こえた。思わず二人でそちらを見る。窓ガラスが突風にうろたえるかのように、大きく揺れていた。
「春一番かな。もうそんな時期なんだね……」
何故かしみじみとそう言われ、私は不思議に思う。彼はその大きな目を瞑って、そして息を細く吐き出した。
「なんでもない。引きとめてごめんね」
「いいえ……」
七海さんの態度に秘密めいたものを感じたが、あえてこれ以上の追及は避けた。
視線を彼のテーブルの上に向けると、この図書館で借りたのであろう小説が二冊と、英語の問題集、辞書があった。問題集はTOEIC対策のものであった。
英語の勉強に、この図書館から一杯借りてくれている小説。どれもこれも彼らしいものだと思った。これらのものが、細面で、繊細そうで、小説好きな彼らしさを雄弁に語っているような気がした。
それらを横目にし、私は業務に戻った。
♦ ♦ ♦
「この本はどこにあるんですか?」
「はい、この本はこちらにございます」
レファレンスサービスも重要な図書館業務のひとつ。利用者さんを案内してからカウンターに戻った。
そして、今日も彼がやってきた。七海さんが来館してくれた。
図書館の入り口が開くたび、ついついそちらを見てしまう。そして、それと同時に「七海さんではないのだろうか?」という淡い期待を抱いてしまう。
つい一週間前、落としてしまいそうになった本を拾ってもらった日以来、どうにも彼が気になって仕方がない。毎日のようにここに通ってくれる彼の存在が、私の心の中で、大きな染みを作っていく。
紙に水がかかると、じんわりと水分が染みを作っていく。
それと同じ反応が、私の中でも起きていた。
じんわりと、七海さんという存在が私の心に染みていくのだ。まるで、透き通った水のように。
七海さんがカウンターに歩み寄り、バッグの中から一冊の本を出した。
「これ、お願いします」
「はい、返却ですね」
本のページをぱらぱらとめくって、中身を確認する。
「『そして誰もいなくなった』を借りたんですね?」
私はミステリー好きだ。
アガサ・クリスティーの代表作とも評される『そして誰もいなくなった』は、格別どきどきしながら読んだものだ。当たり前だけど、図書館員は読書好きが多く、私もその例にもれない。
「うん、そうなんだ。有名なだけあって、すごく面白かったよ」
「ああ、私も好きです。『そして誰もいなくなった』は、最後まで犯人がわかりませんでした」
「確かに、あれは僕も読めなかったなあ。著者の伏線の張り方が上手かったからかな? それとも、叙述トリックで……」
「そうですよねー。アガサ・クリスティーは、叙述トリックがとても上手くてですね……」
昨晩読んだばかりと言う七海さんと、やや興奮しながら本について語り合う。そうしていると、カウンターの横から「ちょっと」と小声で耳打ちされた。
副館長だ。話し込んでいたので、注意されてしまった。
それに誰が何を借りたかなど、口にしてはいけないのだ。図書館員には、守秘義務があり、そういったことを一切口外してはならない。
「それでは、確かに受け取りました」
私が声を潜めて言うと、彼はくすりと笑い、いつもの暖房からは遠い自分の指定席へと歩いていった。
──ああ、利用者さんが返却した本のタイトルを口にしてしまうなんて、私は図書館員失格だ。
ぱったりとカウンターに伏せてしまいそうになりながら、歩いていく彼を横目で見る。
彼はこれからどうするのだろう?
英語の勉強をし、頭が疲れたら、小説を読むのだろうか。気になるところではある。
小説とは、結局のところ文字の集合体である。なのに何故、皆がこんなにも一冊の本に夢中になるのであろうか。
本文の中に綴られている文字。それは物語によって、如何様にも変化する。ファンタジーになったり、時代物になったり。
それが魅力なのである。それが文字がかけた魔法でもあるのだ。
そんな文字に、私も、多分、あの七海さんもどっぷりとはまっている。今のところ、お互いがそうであると認識できるのは、お互いに本の虫であり、文字の魔術にはまっているところだった。
♦ ♦ ♦
今日は休館日。
私は近所で買い物をしようと、コートを着て外に出た。散歩がてらゆったり歩いていると、勤めている図書館の前で見知った顔を見つけた。七海さんだ。
「こんにちは」
頭を下げられたので、私もお辞儀をする。彼はなんで休館日なのに、ここにいるのだろう。
「どうかしたんですか?」
尋ねてみると、七海さんはあっさり答えた。
「明日、返却期日の本があったから、返却ポストに入れるところ。明日は来られないからさ」
「そうですか。寒い中ありがとうございます」
彼の手から江戸川乱歩の『白昼夢』が見えた。
彼は穏やかな春の陽のように、にっこりと笑んでいた。
季節はまだ二月だけれども、彼の笑顔は温かかった。
「あ、見られちゃった? 好きなんだ、江戸川乱歩。この前『D坂の殺人事件』も借りたし」
「私がカウンターで貸し出しましたよね? あれは私も読んだことがあります」
「あの主人公と明智の推理の仕方が随分異なっていて」
「そうそう、主人公と明智の目のつけどころが全然違うんですよね」
びゅうと冷たい意地悪な北風が吹きつける。
私は首をすくめ、彼は青いマフラーに手を当てた。
こんなところで、吹きさらしになりながら立ち話もなんだなと思っていると、七海さんが唐突に私の手を取り、図書館前にあるベンチへと引っ張っていった。
え? え?
私は戸惑うばかり。
敷地内にある砂利を踏みしめる音だけが聞こえてきた。
彼は私をベンチに座らせた。そして、彼も隣に座る。
「な? え? 一体どうしたんですか?」
「やっぱり。今見て、確信した」
「何がです?」
「手荒れ。ひどくなってる」
この間見たときから気になっていたんだ、と彼はバッグの中から、ハンドクリームを取り出した。
そして、荒れた私の手にクリームを塗り込んでくれた。潤いある彼の大きな手にかさかさの手を握られて、動揺してしまう。
「す、すみません。大丈夫ですから」
「加賀さんの応対は丁寧なのに、自分のことは無頓着すぎるし、ドジだし。つい見ちゃうよ」
……かなり悪しざまに言われている気がしないでもないが、七海さんの気遣いは嬉しい。好意に甘えて丹念にクリームを塗ってもらった。手も潤い、心まで潤った気分である。彼はそんな自分の仕事ぶりに、満足そうだった。
「これからも、きちんと保湿しなよ」
「はい、ありがとうございました」
私の手を離した七海さんは、なんとなく名残惜しそうだった。
それから、自然と江戸川乱歩の話へ戻った。そして、アガサ・クリスティーに。次にコナン・ドイルの作品の話題になる。
こうして本の話をしていると、ついつい熱が入ってしまう。
彼との会話は楽しい。彼と話していると、心が安らぐ。心の重しが、軽くなっていく。
やっぱり、小説を通して私たちは繋がっていたんだ。本の中に綴られている文字を通じ、同じ想いを共有していたのだ。
つくづくそのように思ってしまう。
彼とは、文字で繋がっているのだと。
だから、こんなにも話が盛り上がるし、楽しいのだと感じた。
話し込んでいるうちに、気がつけば陽が傾いていた。彼は近くの自販機で温かい缶コーヒーを買い、私に手渡してくれる。
「はい、あげる」
「いいんですか?」
「いいよ。今日は加賀さんとたくさんお喋りできて楽しかったから、そのお礼」
七海さんも缶コーヒーを開け、近くの柵にもたれかかりながら、空を見上げる。
「もう二月も終わりだね。そうしたら三月」
「三月に何かあるんですか?」
彼はいつかしたように目を閉じた。長い睫毛だなあと思わず見とれていると、曖昧な表情でぽつりと囁くように呟いた。
「僕、この図書館が好きだよ。それから……」
ううん、と首を振って目を開ける。じっと私を見つめてから、また「なんでもない」と誤魔化すように笑った。
♦ ♦ ♦
月末、二月二十八日は館内整理日である。おすすめの本も二月から三月へと衣替え。児童室にある壁飾りも雪模様から花模様に変えた。
いつもの時間に仕事を上がり、通用口から外に出ると、青いマフラーをした七海さんが、斜向かいの花壇のレンガに座っていた。私を見つけたようで、手を振ってくる。
「加賀さんー!」
「えっと、七海さん? どうしてここに?」
「あっ! やっと名前呼んでくれた」
彼は何かを吹っ切ったようににっこりした。年相応の笑顔は可愛らしく見える。
「あのさ、僕、今日でここに来るの最後なんだ」
「え?」
「明日からイギリスに留学するんだよ」
突然の言葉に、私は目を丸くする。意味を飲み込もうと必死で頭を回転させた。
──イギリス留学。
遠い、ところ。
七海さんは近くに感じていたのに、急に、そんな。
「僕、この図書館が大好きで。一生懸命働いている加賀さんを見るのも大好きで。だから、最後に迷ったけど、会いに来ちゃった」
はい、と渡されたのは、二枚の紙片。一枚はメールアドレスが記されてあって、もう一枚には。
「──詩?」
「うん、僕が作ったんだ。よかったら読んでね」
突然のことに私は、ただただ驚くことしかできない。彼は微笑んで、時間だからと身を翻した。
通用口に一人残された私は、手の中の紙片に視線を落とした。七海さんの字も詩も、とても滑らかで美しかった。
~『This letter, for you.』~
今の手紙は 0と1で書かれてるなんて
誰も知らない どこか不思議な世界だね
そんな場所へと 僕が連れて行ってあげる
離ればなれになっても 言葉は伝えられる
扉を開けるように いつでも僕のところに
風が舞うように どこでも貴女のところに
現代の魔法のような ひとつのアドレスを残して
僕から貴女へと 宛先を書いただけの封筒を送ります
そして貴女の言葉を いつまでもいつまでも待っています
Send the envelope to me. Because I respond to the word.
僕の言葉が貴女の心に届きますようにと この言葉を残していきます
I don't say saying good-bye. See you again.
またいつの日か 図書館の天使様と巡り会えますように
詩の紙に、ぽつりと私の涙が落ちた。悲しみがさざ波のように間断なく押し寄せてくる。私はその気持ちに飲まれ、ひたすら泣いてしまった。
♦ ♦ ♦
翌日、私は採光窓を通し、蒼い空を見る。今頃、彼はあの空の雲の上にいることだろう。多分、機上の人となっているのだろう。言い残した通り、彼は海外へと飛び立っているはずだった。
でも……それでもいい。
私は手に持っていた彼のメールアドレスを見る。
そう、彼とは繋がっているのだ。
たとえ、海の向こうだろうと、文字が二人を繋いでくれる。堅牢な橋のように。
たとえ、海が二人を隔てようとも、メールはそれを越え、繋がってくれる。架け橋のように。
言葉は不変だ。文字は変わらない。
文字が綴られた数々の小説をきっかけに私と彼が出会ったように、ずっとこの先も続いていくのだ。
彼への文学を綴ろう。
それはメールという形になるけれど。それでも、文は不変であるのだから。
思いの丈を込めた文字で書かれたメールを送信する。
私の文字が、想いが、彼に届きますように、そう願って。
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