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二人の儀式
僕がまだ靴紐を結んでいるのに、早々と玄関のドアを開けようとしている和実に、ちょっと待ってと声をかけて右の袖を引っ張った。しゃがみ込んでいる僕は、面倒臭そうに振り向いた和実を見上げる。白くてスッとした顎のラインにくっきりと陰影をつけている喉仏の周りには、髭の剃り残しが黒く点在している。和実はあどけない顔に似合わず髭が濃く、僕とは対照的だ。そのアンバランスさにいつも胸がくすぐったくなる。薄暗くて狭い玄関の三和土で、またかという顔をしている和実に構わず、僕はまず和実の手を触る。指と指を絡ませてギュッと握った後、手首から肘へ手のひらを這わせていく。和実はくすぐったそうな顔をしている。そして立ち上がって抱き締めて、頬擦りをして、首筋の匂いを深呼吸する。僕が好きだった和実の乳臭い匂いは、殆ど家で二人一緒に暮らすようになってからはやっぱり薄れてきている。同じ石鹸に同じ洗剤を使っているからそれも仕方ないのだろうと、柔らかさの奥に筋張った硬さのある二の腕を摩りながら、少し寂しく思う。
「時間ないんだから早くしてよ」という和実の身体に、もう少しだけ、としぶとく触れる。このドアを開けて、3月のまだ肌寒さの残る日差しに照らされてしまったら、僕らは手を繋ぐことすら出来ない。今のうちに和実をチャージしておかないといけない。さっきまで布団でずっと一緒にくっ付いてたんだからもう十分だろうと言われても、そう言う問題じゃない。僕は、普通のカップルみたいに手を繋ぎながら買い物をしたいし、強い風が吹いたら身体を寄せ合いながら歩きたい。二人で向かい合ってケーキを食べに行きたいし、頬にクリームが付いていたら指ですくってあげたい。
そうして出掛ける前の僕らだけの儀式を終えると、ドアを開けた僕らはどこから見ても仲の良い同い年の単なる友達同士に変身する。前を歩く和実のジャケットの襟が裏返っていたので手を伸ばして直してあげる。ジャケットを着慣れていないせいもあるだろうが、家を出る前にしっかり鏡を見たりしないのだ。そういう子供っぽい所も好きだと思う僕は、きっと末期だ。外で身体に触れられるのを嫌がる和実が恨めしそうにこちらを振り向いた。「まだマンションの廊下内だからセーフ」そう伝えると和実はしぶしぶ前に向き直る。和実の後ろ姿越しに、マンションのエントランスのその先にある街路樹の桜のピンクが見える。その景色を少しでも長く目に写しておきたくて、僕の歩幅は小さくなる。段々と小さくなっていく和実の後ろ姿を見ながら、花粉のせいか、鼻の奥がむず痒くなる。
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